柳生の徳政碑文(疱瘡地蔵)

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柳生の徳政碑文(疱瘡地蔵)
[柳生の徳政碑文(やぎゅうのとくせいひぶん)は、奈良県奈良市柳生町にある碑文。室町時代中期に起きた正長の土一揆にまつわる遺物とされている。「正長元年柳生徳政碑」の名称で国の史跡に指定されている。
添上郡柳生村柳生街道に面する、芳徳寺と川を隔てた崖に、「疱瘡地蔵」と通称する地蔵菩薩立像を彫り出した花崗岩の巨石があり、その向かって右下部分に27文字の碑文が刻まれている。正長元年(1428年)の正長の土一揆によって徳政令を勝ち取った郷民の誰かが記念に彫ったものとされている。
碑文には
『正長元年ヨリ
サキ者カンへ四カン
カウニヲ井メアル
ヘカラス』
と3行半にわたって陰刻されており、読み下せば「正長元年より先は、神戸四箇郷に負い目あるべからず」となる。「正長元年より以前の、神戸(かんべ)四箇郷における負債は一切消滅した」という、徳政令の具体的内容を記したものと解釈されている。
なお、「神戸四箇郷」とは大柳生庄、小柳生庄、坂原庄、邑地庄の4庄を指し、それは、芳徳禅寺に伝わる沢庵宗彭の鐘銘文に「神戸(かんべ)四ヶ郷」とあることからも証明されている。
現況
徳政碑文、風化が進み、文字の判別は困難な状態にある
石自体は高さ3メートル、正面幅3.5メートル、側面幅2.5メートル。碑文の刻まれている区画は、この巨石の右下よりにあり、縦33センチ、横21センチほど。石の中央に位置する地蔵菩薩像は、疱瘡除けを祈願して彫られたとの伝説があり、「疱瘡地蔵」の名で知られる。地蔵像には「元応元年己未(つちのとひつじ)十一月日」の刻銘があり(元応元年は1319年)、したがって、徳政碑文自体は、地蔵像が彫られてから109年後に刻まれたことになる。
1953年(昭和28年)3月に奈良県の文化財に指定され、翌1954年(昭和29年)度には高校3年の歴史教科書に登載された。その後、1983年(昭和58年)には、国の史跡に指定された。
碑文は長年の風雪によって磨耗しており、「長」の字以外は肉眼で判別することは困難な状況である。もともとは露天であったが、1998年(平成10年)、奈良市の手により周辺整備され[2]、屋根と木柵によって保護されるようになった。
なお、国立歴史民俗博物館の第2展示室(中世)にレプリカが展示されている。
疱瘡地蔵には屋根が設けられている・wikipedia-photo、巨石側面にも地蔵が彫られている・wikipedia-photo、「徳政碑文、風化が進み、文字の判別は困難な状態にある」・wikipedia-photo  (wikipedia・柳生の徳政碑文より)]

正長元年柳生徳政碑 – Google Maps 画像リンク

柳生の徳政碑文(疱瘡地蔵)(Google Map 画像)

柳生の徳政碑文(疱瘡地蔵)(Google Map 画像)

柳生の徳政碑文(疱瘡地蔵)案内板(Google Map 画像)

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