マーカーは植桜楓之碑です。
植桜楓之碑(しょくおうふうのひ)
[奈良を名所として復興しようとした人として、奈良奉行川路聖謨(としあきら)を忘れることはできない。それは現在の奈良公園の緑化のもとをつくり出した人であったからである。
聖謨が奉行として在任(1846-1851年)したころから約一〇〇年前の宝暦(1751-1764)年間にこの境内地に植樹が行なわれたが、嘉永のころには多くは枯れて風致も損われていたらしい。聖謨はもともと緑の保護には熱心で、就任早々に春日山の官林にみずからの寄付を含めて五〇万本の苗木を植えさせたこともあり、荒れた興福寺・東大寺の両境内に植樹を計画した。嘉永二年秋、まず率先して両寺に桜と楓を奉納し、寺社や町民にも協力を呼びかけた。これにこたえて一乗院・大乗院の両門跡をはじめ多くの町民が協力し、わずか二か月で数千株の桜や楓が両境内に植えられ、さらに高円・佐保地域にまで植樹したという。このとき聖謨が詠んだ歌が残っている。
植わたす数も千もとの花もみち
これや大和の錦なるらむ
花もみちここにうつして諸人と
倶にたのしむこころうれしき
また翌嘉永三年三月、この事業完成の次第を書き記念の碑を建てた。いま五十二段わきにある「植桜楓之碑」がそれであって、碑にはつぎの文章が刻まれており、台石にはつぎのようにこれに協力した当時の奈良町の著名な人たちの名が刻されている
『植櫻楓之碑
寧樂之爲都、自古少火突、是以閲千餘年之久、而鵬然獪存者、不達枚擧、豈大麻國
天孫始闢之地故有神或佑護之歟、且土沃民饒、風俗淳古、毎至良辰美景、則都人挈檻
遊于興頑東大二大刹、敷筵設席、遨嬉歡娯洵撃壌之餘鳳、太夲之樂事也、當是時、遠遊
探勝者、亦自千里而至、故二刹多嘉奇花、而寳暦中有植櫻千株者、宀侵就枯槁、今則僅
存耳、今季都人相議、欲復舊觀、乃植櫻楓數千株、於二刹中、以及于高圓佐保之境、一乗
大乗兩門跡、嘉之賜以櫻楓數株、於是靡然仰風、而欣之者相繼、途蔚然成林矣、花時玉
雪之艶、霜後酣紅之美、皆足以娯遊人而怡心目也、衆人喜甚、將建碑勒其事、請記於余
余謬承、寵命、尹此地既五季矣、幸由僚屬之恪勤、蔵俗之醇厚、而職事多暇、優游臥治
累歳無滞獄囹圄時空、而國中竊盗亦減過牛矣、由是、官賞賜屬吏、而都人亦得以樂
其樂、况今有此擧、不唯都人得其楽、而四方來遊者亦相與享其樂、此余所欣懌而不能
已也、然歳月之久、櫻也、楓也、不能無枯槁之憂、後人若能補之、則今日遊觀之樂、可以閲
百世而不替、此又余之所望于後人也、故不辭而記之、以勒諸碑、一乗法王、爲題其額、余
文謗陋、不足觀、然法王親翰、則足使櫻楓増光華矣
嘉永三年歳次庚戌三月寧樂尹從五位下左衞門尉源朝臣聖謨撰拜書』 (「奈良市史 通史三・通史四デジタル版 – 第三節 名所としての奈良[PDFファイル/3.0MB]」より)]
楊貴妃桜
[川路聖謨の「植桜楓之碑」の隣に植えられている楊貴妃桜。
寛政三年(1791年)発行の「大和名所図絵」に『昔、興福寺にいた玄宗という名の僧が、この場所にあった桜を大変好んだという逸話から、いつしか人々が、唐の玄宗皇帝が楊貴妃を寵愛した故事に因み、ここの桜を「楊貴妃桜」と呼ぶようになった』という話が紹介されている。 (「神仏霊場(興福寺・3) – 神仏霊場を行く」より)]
「和州奈良之圖(天保15・1844年)」(絵図中央付近・さる沢池の左上にやうきひ桜が描かれています。)
カメラ南方向が植桜楓之碑です。