マーカーは添御県坐神社です。
添御県坐神社
[平安時代初期に編纂された「延喜式神名帳」という全国の神社総覧によりますと、当神社は、月並祭や新嘗祭(にいなめさい)に朝廷からお供え物の布類を奉られて「大社」という格式を認められた神社と記されています。従って、延喜年間(901~923AD)に既に存在していました。一説には、三祭神のうち武乳速之(たけちはやの)命は添御県の一帯を開発し、治めた豪族の祖先神とされ、起源は奈良時代以前まで遡ることができます。
その後、富雄川流域でもこの一帯は古代豪族の小野氏の末裔が治める村里となっていました。
当神社に隣接する根聖院の境内には三碓(みつからうす)の地名の起源となったと言われる三連の窪みのある石が置かれていて、これが古代の唐臼の残欠と信じられています。
創建時期から中世初めまでの詳細は不明ですが、昭和41年の解体修理の際に殿内から墨書が発見されて、現在の社殿が南北朝時代末期(室町時代初期)の永徳3年(1383年)の建立と判明しました。また、残っていた棟札などから次のような修理が行われたことも判りました。
< 造営、修理の記録 >
永徳3年(1383)11月9日(造営)、永正10年(1513・修理) 、寛文5年(1665・修理、以下同じ)、文政3年(1820)、昭和41年(1966)12月
現在は、昭和25年、文化財保護法により国の重要文化財に指定されています。
神社建築で、南北朝時代にまで遡れる建造物は全国でも珍しく、貴重なもので、これを保護する「覆い屋」が古くから何代かにわたり設置されていた為と考えられます。
建築形式は五間社流造(ごけんしゃながれづくり)と言い、柱間が五つに分かれ、屋根が一方に大きく流れ、内部も五部屋に分かれており神坐の在る部屋の上には破風が三ケ所付いています。 (「添御県坐神社ホームページ – ご由緒」より)]
カメラ東北東方向が添御県坐神社参道です。