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元興寺
[元興寺(がんごうじ)は、奈良市にある、南都七大寺の1つに数えられる寺院。蘇我馬子が飛鳥に建立した、日本最古の本格的仏教寺院である法興寺がその前身である。法興寺は平城京遷都に伴って飛鳥から新都へ移転し、元興寺となった(ただし、飛鳥の法興寺も元の場所に残り、今日の飛鳥寺となっている)。奈良時代には近隣の東大寺、興福寺と並ぶ大寺院であったが、中世以降次第に衰退して、現在は元興寺と名乗る寺院は次の2つに分かれている。
(1) 奈良市中院町所在の元興寺。1977年までは「元興寺極楽坊」と称していた。西大寺の末寺で、宗派は真言律宗に属する。本尊は智光曼荼羅である。
(2) 奈良市芝新屋町所在の元興寺。東大寺の末寺で、宗派は華厳宗に属する。本尊は十一面観音である。
奈良市中院町の元興寺は「古都奈良の文化財」の一部として、世界遺産にも登録されている。上記2つの元興寺は、もともと同じ寺院の一部であるので、本項ではまとめて述べることとする。
また、かつての元興寺を起源とする寺院は他に奈良市西新屋町に所在する真言律宗の小塔院がある。ここは現在は奈良市中院町所在の元興寺内の収蔵庫内に現存する国宝の五重小塔を安置する堂が存在した場所として1965年に国指定の史跡・「元興寺小塔院跡」に指定されている。現在は江戸時代に建立された虚空蔵堂があるだけである。
元興寺(奈良市中院町)
●本堂(国宝) – 極楽坊本堂または極楽堂とも。寄棟造、瓦葺きで、東を正面として建つ(東を正面とするのは阿弥陀堂建築の特色)。この建物は寄棟造の妻側(屋根の形が台形でなく三角形に見える側)を正面とする点、正面柱間を偶数の6間とし、中央に柱が来ている点が珍しい(仏教の堂塔は正面柱間を3間、5間などの奇数とし、正面中央に柱が来ないようにするのが普通)。内部は板敷きの内陣の周囲を畳敷きの外陣がぐるりと囲んでおり、内陣の周囲を念仏を唱えながら歩き回る「行道」に適した構造になっている。鎌倉時代の寛元2年(1244年)、旧僧房の東端部分を改造したもので、内陣周囲の太い角柱や天井板材には奈良時代の部材が再用されている。また、屋根瓦の一部にも飛鳥~奈良時代の古瓦が使用されている。ここに使われている古瓦は上部が細くすぼまり、下部が幅広い独特の形をしており、この瓦を重ねる葺き方を行基葺(ぎょうきぶき)という。
●禅室(国宝) – 切妻造、瓦葺。本堂の西に軒を接して建つ。元は現・本堂も含んで東西に長いひと続きの僧房であったものを鎌倉時代に改築したものである。正面の4箇所に板扉があることからわかるように、現存部分は4区画分で、1区画には5-8人の僧が生活していたという。本堂と同様、部材や屋根瓦の一部には奈良時代のものが残っている。なお、2000年の元興寺文化財研究所の発表によれば、禅室の部材を年輪年代測定法で調査したところ、西暦582年伐採の樹木が使用されているとのことで、事実とすれば、本建物の一部には法隆寺西院伽藍よりも古い材木が使用されていることになる。
●東門(重要文化財) – 東大寺の門を移築したもの。室町時代。
元興寺(奈良市中院町)~東門(重要文化財)・wikipedia-photo
極楽坊本堂(国宝)・wikipedia-photo
本堂(国宝)・wikipedia-photo
禅室(国宝)・wikipedia-photo
日本最古、飛鳥時代の瓦(極楽坊禅室・本堂)・wikipedia-photo
五重小塔・wikipedia-photo
平城京の元興寺の模型(奈良市役所所蔵平城京1/1000模型の一部)南側から見る。後方の寺院は興福寺。wikipedia-photo
ウィキメディアコモンズには、元興寺の画像またはその他のファイルが含まれています。 (wikipedia・元興寺より)]
[日本最初の本格的伽藍である法興寺(飛鳥寺)が平城遷都にともなって、蘇我氏寺から官大寺に性格を変え、新築移転されたのが、元興寺である。平安遷都後も、この外京と東大寺、春日社一帯は南都の中心地であった。
その後、伽藍は荒廃し、堂塔が分離してゆくことになる。中でも伽藍の中央部、金堂、講堂など中枢部の北に当たる僧坊の地域に、東室南階大房が十二房遺って、その一室が特に極楽坊と呼ばれるようになる。この場所は奈良時代の元興寺三論宗の学僧智光法師が居住した禅室で、我が国浄土三曼荼羅の随一である智光曼荼羅発祥の地とする信仰が生まれた。
寛元2年(1244)には極楽房を中心に大改築が行われ、元興寺極楽坊本堂(極楽堂)と禅室(春日影向堂)の二棟に分離された。この事から極楽房は東向き(旧元興寺は南向き)の独立的な寺院となったようである。
応安年間(1368~1374)に興正菩薩叡尊の末資(ばっし)である大安寺巳心寺開山、光圓道種律師が入寺し、極楽律院として結界され、応永年間(1394~1428)には、東大寺西南院四脚門を極楽坊正門(東門)として移築し、太子堂を新造し、本堂等も修理された。ここに初めて極楽院が成立したのである。
永享8年(1436)『西大寺末寺帳』に第9世長老小塔院覚真悟妙上人の時に元興寺中の極楽坊が西大寺の末寺となったようである。
江戸時代に入ると、幕府から100石朱印地を与えられる。
明治期は、無住で、西大寺住職兼務預寺となり、堂舎は小学校(市立飛鳥小学校前身研精舎)や私立女学校(浄土真宗東本願寺経営の裁縫学校)などに使用されている。
昭和18年に生駒山宝山寺より辻村泰圓和尚が特任住職として入寺し、同24年から堂宇の解体修理が再開、旧庫裡を極楽院保育所として移転改築して、同30年に重修の竣工を期に、寺務所が新築され定住することとなった。
境内地が昭和40年に国史跡に指定され、寺院名称は昭和30年に南都極楽院から元興寺極楽坊に、昭和52年に元興寺に変更された。
平成10年(1998)12月、ユネスコの世界文化遺産「古都奈良の文化財」のひとつとして登録された。 (「元興寺案内」より)]
「元興寺ご案内|元興寺公式サイト」 – 「建築・境内図」
元興寺建築・境内図
グーグル・アート・プロジェクト – World Wonders – 「古都奈良の文化財:元興寺」
「大和名所図会. 巻之1-6 / 秋里舜福 [著] ; 竹原信繁 画」・「元興寺御霊社」(2-25)、「元興寺解説・左ページ左端」(2-23)
「元興寺 東門 – Google Map 画像リンク」、「元興寺 – Google Map 画像リンク」、「元興寺極楽坊禅室 – Google Map 画像リンク」、「法輪館(元興寺総合収蔵庫) – Google Map 画像リンク」
カメラ西方向が元興寺(奈良市中院町)東門(重要文化財)です。
元興寺境内、カメラ西方向が極楽坊本堂(国宝)で、東方向が東門(重要文化財)です。
カメラ北西方向が禅室(国宝)で、カメラ北東方向が極楽坊本堂(国宝)です。