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般若寺
[般若寺の創建事情や時期については正史に記載がなく、創立者についても諸説あって、正確なところは不明である。ただし、般若寺の境内からは奈良時代の古瓦が出土しており、奈良時代からこの地に寺院が存在していたことは確かである。寺伝では舒明天皇元年(629年)、高句麗の僧・慧灌(えかん)の創建とされ、天平7年(735年)、聖武天皇が伽藍を建立し、十三重石塔を建てて天皇自筆の大般若経を安置したというが、これらを裏付ける史料はない。別の伝承では白雉5年(654年)、蘇我日向臣(そがのひむかのおみ)が孝徳天皇の病気平癒のため創建したともいう(『上宮聖徳法王帝説』裏書)。治承4年(1180年)、平重衡による南都焼討の際には、東大寺、興福寺などとともに般若寺も焼け落ち、その後しばらくは廃寺同然となっていたようである。廃寺同然となっていた般若寺は、鎌倉時代に入って再興が進められた。寺のシンボルとも言える十三重石塔は僧・良恵(りょうえ)らによって建立され、建長5年(1253年)頃までに完成した。その後、延徳2年(1490年)の火災、永禄10年(1567年)東大寺大仏殿の戦いでの松永久秀の兵火によって主要伽藍を焼失した。延徳の火災では前述の叡尊によって供養された文殊菩薩像も焼失している。明治初期の廃仏毀釈でも甚大な被害を受けた。近代に入ってからは寺は荒れ果て、無住となって、本山の西大寺が管理していた時代もあったが、第二次世界大戦後になって諸堂の修理が行われ、境内が整備されている。コスモス寺の名で知られる。
伽藍
●本堂(奈良県指定文化財) – 入母屋造、本瓦葺き。棟木に寛文7年(1667年)上棟の銘がある。
●楼門(国宝) – 入母屋造・本瓦葺きの楼門(2階建て門)。民家の建ち並ぶ京街道に面し、西を正面として建つ。鎌倉時代(13世紀後半)建立。下層は1間、上層は3間とする。長押を多用し、和様を基調としつつ、上層の組物など細部には大仏様(よう)の意匠を多用する。上層の出組の組物は、外部から見ると複雑な構造に見えるが、建物内部では柱が直接桁(屋根の垂木を支える水平材)に達する単純な構造で、組物は使われていない。つまり、上層の組物は外側から釘止めまたは枘(ほぞ)差しとした見せかけのもので、このような構造の建物は非常に珍しい。
●経蔵(重要文化財) – 様式上、鎌倉再興期の建立とみられる、切妻造の小規模な建物。解体修理の結果、建立当初は経蔵ではなく、土間床の建物であったことが判明している。建物の本来の用途は未詳。
●鐘楼 – 元禄7年(1694年)建立。
●十三重石塔 – 高さ12.6メートル。建長5年(1253年)頃に南宋から来日した石工・伊行末(いぎょうまつ)により建立された、日本の代表的な石塔の一つ。楼門を入って正面、本堂から見ても南正面に位置し、当寺の信仰の中心となっている。
楼門(国宝)・wikipedia-photo
コスモスと本堂・wikipedia-photo
「般若寺経蔵(左)と十三重石塔(右)、共に重要文化財」・wikipedia-photo
笠塔婆・wikipedia-photo (wikipedia・般若寺より)]
「般若寺 コスモス寺 公式ホームページ|Hannyaji-temple」
般若寺境内図(「オープンストリートマップ」より。)
「大和名所図会. 巻之1-6 / 秋里舜福 [著] ; 竹原信繁 画」・「般若寺」(2-15)、「般若寺解説・右ページ左から3行目より」(2-18)
「般若寺 楼門 – Google Map 画像リンク」、「般若寺十三重塔 – Google Map 画像リンク」、「般若寺 – Google Map 画像リンク」
カメラ東方向が般若寺楼門(国宝)です。
カメラ北北西方向・右に本堂、左に鐘楼、カメラ東南東方向・右に十三重石塔、左に経蔵があります。