三星園上林三入本店

マーカーは三星園上林三入本店です。

上林三入
[「収蔵文書調査報告書3 「上林三入家文書」 | 宇治市公式ホームページ」によると、初めて三入と名乗ったのは、宇治川下流の慎島村の今西家から宇治郷の藤村に養子として入った、今西光盛(六兵衛)の二男・幸盛(万治3年・1660年没)です。ちなみに、実父今西光盛(六兵衛)は、堀久太郎(堀秀政)に仕え。その後茶師に転身したと伝える。また当時の三入宛の書状を分析すると、初代三入は藤村と同時に上林とも呼ばれることがあり、それが二代目に家督を譲る寛永15年(1636年)から上林姓に一本化されたと判断できる。  (「収蔵文書調査報告書3「上林三入家文書」p1-10」のp3より)]
  
上林三入家に伝来の文書は、三星園上林茶舗の経営とともに、大正7年(1918年)に同家から田中家に引き継がれた。  (「収蔵文書調査報告書3「上林三入家文書」p61-70」のp70より)]

[「資料2-1(歴史・文化的景観チーム)(PDF:742KB) – 京都府」に記述されている上林三入家の抜き書き
●【大名の茶詰】
徳川将軍家用の茶は「お茶壷道中」と俗称される一行によって、当初は甲斐山梨県)を経て江戸へ、後には直接江戸城へ運び込まれたが、諸国の大名たちも宇治で茶を購入していた。上林三入家への書状(畠山記念館蔵「上林三入家文書」)を見ると、日向延岡有馬家飛騨高山金森家津和野亀井家をはじめとする全国約六〇家の大小名・旗本からの詰茶に関する内容で占められている。
●【公家の茶】
寛永年間(一六二四~四三)を中心とした文化サロンの中心的な人物であった後水尾院は、門跡・公家らを招いた茶会をたびたび開催していた。伏見区の稲荷神社お茶屋、府下水無瀬神宮の「燈心亭」はその遺構だとされている。そこでは「御茶三入初昔」(『隔蓂記』承応二年十月七日条)や、他の茶会では「上林三入 初昔白」と「星野宗以(仲か) 後昔白」などが使われている。さらに「濃茶二十服」が点てられたこともあった。
●【後西院】
百十一代後西天皇は自邸で「御茶御試」の茶会を行い上林竹庵・星野・春松・八島の初・後昔を飲み比べた(貞享元年五月十六日条)。禁裏などへ茶を届けていた宇治の茶師四家の茶が試し飲みをされたのである。この時期、禁裏や上皇らの間では口切り茶会が定例化・儀式化していたとしてもよい。
「禁裏法皇御所御茶壷之事」(「京都御役所向大概覚書」)によれば一七一五年(正徳五年)には禁裏の「延命壷」など八個の茶壷に黄金一枚で茶を詰めたのは上林門太郎・又平衛・三入、星野宗以、木村宗二、法皇御所では上林又平衛・尾崎有庵・星野宗以に加えて上林三入・長井仙斎らであった。]

三星園上林三入本店ホームページ

三星園 上林三入本店 – 宇治/甘味処 [食べログ]

日本山海名物図会」(巻の二 – 14ページ・焙籠)

三星園 上林三入本店 – Google Map 画像リンク

カメラ西方向が三星園上林三入本店です。

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