宇治代官所跡碑

マーカーは宇治代官所跡碑です。

宇治代官所跡碑
[上林家は、徳川家康本能寺の変(1582)でから三河に逃げ帰る際、上林久茂らが近江信楽まで先導した功績により代官に取り立てられたと伝えられている。
 上林一族の代官支配は、江戸時代の初めころから寛保三年(1743)までの百数十年七代にわたって宇治の代官として君臨した。寛保三年から寛政十二年(1800)までの五十七年間は宇治に居住しない代官がこの任にあたった。
 その後、寛政十二年から天保十四年(1843)の四十三年間、上林六郎久忠が代官に就任しそのあと久建、久賢が代官職を勤めた。以後宇治郷を支配する代官は京都代官小堀氏、信楽代官多羅尾氏の兼務で引き継がれ、明治維新におよんだ。
 代官所のあった宇治妙楽160番地は明治五年八月には宇治町役場となり、また明治六年二月に開校した菟道小学校の門は、代官所の門が使用された。その後、この役場は、昭和二十六年の三月に宇治市役所となり、宇治市制が発足した記念すべき場所で、昭和三十八年に現在の宇治市役所(宇治琵琶三十三番地)に移転するまで続いた。
『宇治代官所跡案内板』より  (「宇治代官所 – 城めぐドットコム」より)]

[江戸時代の宇治は幕府直轄の天領であり、宇治郷代官が置かれていた。この代官を務めたのが、茶師頭取上林家である。また宇治茶師は、将軍家御用の茶を毎年献進する義務を負っており、この茶を江戸へ届けたのが有名な「御茶壺道中」である。「ズイズイズッコロバシゴマミソズイ、茶壺ニ追ワレテトッピンシャン」と歌われるように、御茶壺は将軍家の威光を背景に徳川御三家をも上回る権威を沿道に誇示した。御茶壺道中は寛永 10 年(1633)に確立(『徳川実紀』)し、幕末まで続いた。
江戸幕府は茶の需要者として、碾茶の良否を検分する「御茶吟味役」を置いた。この役は既に室町時代に成立しており、武野紹鷗荒木道陳千利休を経て古田織部へと引き継がれていたという(『徳川実紀』)。織部が大坂城夏の陣豊臣方に味方した嫌疑で切腹したのち、小堀遠州がこの役に任じられている。宇治茶師はこれら茶道大家の繊細な味覚・嗅覚に試されて、宇治茶を育んできた。
近世の絵図などを見ると、多くの茶師は宇治橋通りに家宅を構えていたことが分かる。特に通りの東端、宇治橋西詰に近い所には御物茶師上林各家が集中して門を並べていた。代官家であった上林六郎家の宝暦6年(1756)の間取図には、これら茶師家宅の実像を見ることができる。この六郎家の家宅は御袋茶師長井家を買い取ったもので、間口 29 間(52.2m)、奥行き 53 間(95.4m)の広大な敷地を占め、長屋門を宇治橋通りに開き、表に邸宅、その奥に蒸場や焙炉場などの製茶場や茶園道具倉庫・茶蔵を備えていた。現在、代官家上林六郎家の門は、町中に移築されて残されている。  (「第2章 宇治市の維持向上すべき歴史的風致」より)]

宇治代官所跡 – Google Map 画像リンク

カメラ西北西方向に宇治代官所跡碑があります。

カメラ北方向が移築された宇治代官所門(菟道小学校門)です。(Google Maps)