マーカーは橘島です。
橘島・塔の島(宇治公園)
[宇治川の中州に浮かぶ塔の島・橘島(中の島地区)と、宇治川の左岸にあるよりみち公園からなる宇治公園。宇治川の川岸と塔の島、橘島はそれぞれ喜撰橋、橘橋、朝霧橋、中島橋で結ばれて回遊できるようになっており、観光客をはじめ周辺地域の人々の休息、散策の場所として親しまれてきました。春には「桜まつり」、夏には「花火大会」、秋には「観月茶会」「茶まつり」と、さまざまな行事の舞台にもなっています。
緑豊かな自然のなかに、数多くの名勝や史跡が点在するこの地域では、歴史的景観との調和に配慮した整備がすすめられています。また、紫式部が『源氏物語』最後の十帖の舞台にこの地を選んだことはあまりにも有名。周辺では源氏物語のまちをテーマにした歴史街道関連事業により散策道等の整備がなされ、平成7年には宇治橋のかけ替えも完了。ここから眺める宇治公園もまた、格別の美しさです。 (「宇治公園(風致公園)/京都府ホームページ」より)]
「宇治公園(橘島) – Google Map 画像リンク」、「宇治公園(塔の島) – Google Map 画像リンク」、「宇治川先陣之碑 – Google Map 画像リンク」、「中島橋 – Google Map 画像リンク」、「喜撰橋 – Google Map 画像リンク」
橘島に「宇治川先陣の碑」がある。
「宇治川の戦い(うじがわのたたかい)は、平安時代末期の寿永3年(1184年)1月に源義仲と鎌倉の源頼朝から派遣された源範頼、源義経とで戦われた合戦。治承・寿永の乱の戦いの一つ。
入洛時には数万騎だった義仲軍は、水島の戦いの敗北と状況の悪化により脱落者が続出して千騎あまりに激減していた。義仲は義仲四天王の今井兼平に500余騎を与えて瀬田を、根井行親、楯親忠には300余騎で宇治を守らせ、義仲自身は100余騎で院御所を守護した。1月20日、範頼は大手軍3万騎で瀬田を、義経は搦手軍2万5千騎で宇治を攻撃した。
義経軍は矢が降り注ぐ中を宇治川に乗り入れる。佐々木高綱と梶原景季の「宇治川の先陣争い」はこの時のことである。根井行親、楯親忠は必死の防戦をするが、義経軍に宇治川を突破される。義経軍は雪崩を打って京洛へ突入する。義仲が出陣し、義経軍と激戦となる。義仲は奮戦するが遂に敗れ、後白河法皇を連れて西国へ脱出すべく院御所へ向かう。義経は自ら数騎を率いて追撃、院御所門前で義仲を追い払い、後白河法皇の確保に成功する。後白河法皇を連れ出すことを断念した義仲は今井兼平と合流すべく瀬田へ向かった。瀬田で範頼軍と戦っていた今井兼平は宇治方面での敗報を知り退却、粟津で義仲との合流に成功する。義仲は北陸への脱出をはかるが、これへ範頼の大軍が襲いかかる。義仲軍は奮戦するが次々に討たれ、数騎にまで討ち減らされたところで、遂に義仲が顔面に矢を受けて討ち取られた。今井兼平も義仲を追って自害した(粟津の戦い)。
宇治川先陣の碑・wikipedia-photo、宇治橋より宇治川上流を望む・wikipedia-photo (wikipedia・宇治川の戦いより)]
宇治川資料リンク
「都名所図会」・「巻之五 前朱雀再刻 宇治川の蛍狩り」、「巻之五 前朱雀再刻 宇治川の網代」
宇治川の蛍狩り(拡大図)
[家集
鳥羽院の北面会に江上蛍多といふ事をよめる
いさやにの蛍の数はしらねども玉江の芦のみえぬ葉ぞなき
源三位頼政]
宇治川の網代(拡大図)
[侍中群要に山城国宇治の御網代より日毎に鮎魚を進るとなんかけるも、今は此例なくて、弥生の頃は鮎汲とて平等院より十町ばかり川上櫃川のわたしのほとりにて、人々は巌の肩にならび居て、早瀬を登る若鮎を汲上ゲ汲上ゲ興に乗じき。李白が詩に万戸候も幕すとは此たのしみに換がたきをいふ也。又氷魚をとりて毎年九月より十二月までこれを貢よし、花鳥余情に見えたり。
拾遺
数ならぬ身をうぢ川の網代木におほくのひをも過しつる哉
読人しらず]
「拾遺都名所図会」・「巻之四 前朱雀 喜撰嶽」(宇治川岸に恵心院、興聖寺が描かれている。)
喜撰嶽(拡大図)
[喜撰嶽(きせんだけ)
喜撰嶽は宇治より二里にして櫃川(ひつかは)村の山上也。山頂に高サ一丈斗の巌窟ありて其中に二尺斗の石塔の片破なる物有。石面に文字あり。苔蒸して分明ならず。]
橘島へ渡る橘橋西側のカメラです。
橘橋北東端から見た橘島です。
朝霧橋南西端から見た橘島です。
塔の島の宇治川対岸・観流橋から見た塔の島と十三重石塔です。
塔の島へ渡る喜撰橋前のカメラです。
塔の島北端から見た十三重石塔です。