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興聖寺
[興聖寺(こうしょうじ)は京都府宇治市にある曹洞宗の寺院。日本曹洞宗最初の寺院で僧堂がある。山号は仏徳山(ぶっとくさん)。本尊は釈迦三尊。参道は「琴坂」と称し、宇治十二景の1つに数えられている。
道元は宋から安貞元年(1277年)に帰国、しばらく建仁寺に身を寄せた後、同寺を去って深草(現在の京都市伏見区深草)の安養院に閑居した。寛喜元年(1229年)頃のこととされる。安養院はかつて深草にあった藤原氏ゆかりの大寺院極楽寺の跡で、現在の京都市伏見区深草宝塔寺山町付近にあったと推定されている。天福元年(1233年)、道元は深草に興聖寺を開創する。『永平広録』によれば嘉禎2年(1236年)に開堂式が行われ、観音導利興聖宝林寺と号した。なお、その前年の嘉禎元年(1235年)の「宇治観音導利院僧堂建立勧進之疏」(『建撕記』所収)によると、当時の興聖寺には仏堂はあったが法堂と僧堂はまだなく、道元は僧堂建立のための勧進を呼びかけていた。建築史家の太田博太郎は、この時点(嘉禎元年)からわずか1年足らずの嘉禎2年に伽藍が完成していたとは考えられないとしている。
興聖寺は、比叡山延暦寺の弾圧を受け、寛元元年(1243年)、道元が越前国に下向して以降荒廃し、住持4代で廃絶した。その後慶安2年(1649年)、淀城主の永井尚政が万安英種を招聘して5世住持とし、朝日茶園のあった現在地に復興したのが今ある興聖寺である。
総門(石門)・wikipedia-photo
琴坂から見た総門(石門)・wikipedia-photo
山門と鐘楼・wikipedia-photo
医薬門・wikipedia-photo
本堂(法堂)・wikipedia-photo
庭園・wikipedia-photo
(wikipedia・興聖寺_(宇治市)より)]
興聖寺境内図(「オープンストリートマップ」より。)
興聖寺資料リンク
「都名所図会」・「巻之五 前朱雀再刻 興聖寺」、「巻之五 前朱雀再刻 仏徳山興聖禅寺 (興聖寺)解説」
興聖寺(拡大図)
[図会左ページ上に興聖寺、中央に恵心院、その左に離宮八幡宮(宇治神社)が描かれています。]
「拾遺都名所図会」・「巻之四 前朱雀 喜撰嶽」(宇治川岸に恵心院、興聖寺が描かれている。)
喜撰嶽(拡大図)
[喜撰嶽(きせんだけ)
喜撰嶽は宇治より二里にして櫃川(ひつかは)村の山上也。山頂に高サ一丈斗の巌窟ありて其中に二尺斗の石塔の片破なる物有。石面に文字あり。苔蒸して分明ならず。]
カメラ北北東方向が興聖寺山門です。
興聖寺薬医門前のストリートビューです。
興聖寺本堂前のストリートビューです。
大書院廊下・庭園前のストリートビューです。