「相州七里濵」(wikipedia-photo)
[七里ヶ浜は、江戸庶民にとって江の島ヘ向かう小旅行の場所であったので、浮世絵には好画題として度々採り上げられ、旅人たちで賑わう往来の様子が描かれることが多い。そうした傾向からみると、この図は大いに趣を異にするものといっていいだろう。
画面には往来の様子どころか、全く人物は描かれておらず、行楽の地にしては僅かに人家がみえるのみの寂しい景観である。また全体の藍色が、一層そうした雰囲気を表出させていて、名所を描いたというより何か山水図に近いといったイメージが強い。
北斎は湾曲する七里ヶ浜から江の島を捉え、その後方に中腹まで雪に覆われた富士を描いているが、画中で動きをみせるのは沸きあがる雲と、穏やかにくり返し打ち寄せる波だけという、不思議な異色作といえる。 (「相州七里浜 – 冨嶽三十六景 – 東京伝統木版画工芸協同組合」より)]
「武陽佃嶌」(wikipedia-photo)
[佃島は元々、隅田川の河口に自然に出来た寄洲。徳川家康は幕府を江戸に置くにあたり、摂津国佃村の漁民を江戸に呼び寄せた。その後、隅田川河口の三角洲を埋め立て、島を作り、漁民達はそこに住む様になったとされる。幕府は佃島の漁民たちに、江戸近海で、優先的に漁が出来る様な特権を与えて保護したといわれており、毎年十一月から翌三月頃までは白魚漁がさかんに行われ江戸風物のひとつであった。先の広告に「富嶽三十六景 前北斎為一翁画 藍摺一枚・・・(中略)又は佃島より眺る景・・・」とあったように、「武陽佃島」は藍一色で摺られた版であったが、この版は、後摺りで、富士の背景の空が夕日に染まる空へとアレンジされている。様々な動きを見せる、船への取材は、約15年前に刊行された『北斎漫画』に見ることができる。特に画中手前の船の積み荷の形は、富士の形と相似させているところも面白い。 (「冨嶽三十六景《武陽佃島》 文化遺産オンライン」より)]
「常州牛堀」(wikipedia-photo)
[「牛堀」は、霞ヶ浦の南東端から流出する常陸利根川左岸にあり、現在の茨城県潮来市に大字として残る。『三十六景』全図中、最も東に位置し、かつ最も富嶽から遠い距離(約175キロメートル)にある。
立体地図ソフト「カシミール3D」を駆使し、理論上、富士が見える場所を提示した田代博によると、常陸国南部は、西側に山地が接していない為、富嶽が見られる地区になっている。
徳川幕府の利根川瀬替え政策により、東廻海運が当湊に寄港するようになり、遊廓が出来るほど栄えるが、本図が刊行される頃には、廻船は直接利根川本流に入るようになり、当地は水戸藩の輸送と霞ケ浦での漁業、鹿島・香取両神宮参詣の宿としての利用に留まった。
当地は、赤松宗旦『利根川図志』巻六にて、「牛堀 霞が浦入口なり 霞が浦ハ至て渡り難き海なれバ 此所に滞船して風をまつ故に 出入の船多く此河岸に集り また鹿島に至るに 利根川より横利根に入り 北利根を経て 浪逆(なさか)の海にいたる」 と言及されている。本図でも船は帆柱を畳んでおり、風待ちしているものと思われる。
北斎が常州を訪れた確実な記録はないが、河村岷雪の絵本『百富士』巻四に同地からの富士が描かれており、同書からの援用が考えられる。
岷雪の画は、右に筑波山、左に富嶽を望み、霞ヶ浦・常陸利根川も広く取り入れた俯瞰図である。遠景に帆船が浮かぶ様は、『三十六景』「上總ノ海路」にも見られる構図である。
対して北斎は、「高瀬舟」を前面に大きく描写し、更にその手前に巌(いわお)を配する「近接拡大法」を取ることによって、岷雪の説明的な「実景」ではなく、力強い「売れる」絵を描いた。
左の男は、高瀬舟から水を流しているが、彼が持つものは、よく見ると羽釜だと確認でき、右手で流出箇所を押さえていることから、米を研いでいるのだと分かる。同様の行為は、北斎の狂歌絵本『みやこどり』(1802年・享和2年)の「三叉の月」でも見られる。
雪の葦原を2羽の鷺が飛ぶが、彼らの姿勢は、『三十六景』「駿州大野新田」での5羽と同じである。
初摺は「ベロ藍」単色摺だが、本図は後摺で、船及び遠景の庵2軒に木色が用いられている。富嶽の頂より右下にも庵2軒があるが、こちらはベロ藍のままである。 (wikipedia・常州牛堀より)]
「甲州石班澤」(wikipedia-photo)
[本図は甲府盆地を潤す釜無川と笛吹川が合流して富士川となる地点の鰍沢(山梨県富士川町)を描いている。当地は富士川舟運の拠点で、兎の瀬と呼ばれる難所であった。
「石班澤」を「かじかざわ」と読ませるのは、カジカ(鰍)とウグイ(石斑魚)を誤ったためと思われる。
画面中央には岩場から波打つ富士川に向かう漁師の姿が描かれ、その傍らには子どもと籠が描かれている。漁師が持つのは投網とされているが、物理学的観点から、この描写では投網とも鵜飼とも言えないとの意見がある。
初摺は藍摺であるが、後摺では多色摺になっている。
『北斎漫画 十三編』には「(甲州)猪ノ鼻」(コマ番号10/33)の題で、富嶽を省略した上で本図を反転させた図が載せられている。 (wikipedia・甲州石班澤より)]
「信州諏訪湖」(wikipedia-photo)
[江戸時代には諏訪湖は名所として知られ、江戸後期には浮世絵師の葛飾北斎が天保元年(1830年)から天保6年(1834年)にかけて刊行した連作『冨嶽三十六景』や、同じ天保年間刊行の『景勝奇覧』において諏訪湖から見える富士山を描いている。 (wikipedia・諏訪湖#絵画・写真より)]
葛飾北斎 景勝奇覧 信州諏訪湖
「葛飾北斎の信州諏訪湖(富嶽三十六景) – 富士山はどの場所の …」
「逺江山中」(wikipedia-photo)
葛飾北斎/画『富岳百景』 -「逺江山中の不二」
「甲州三嶌越」(wikipedia-photo)
[「三島越」とは甲州から籠坂峠を越え御殿場を通り三島へ抜ける道をいったものである。画中の巨木の太いこと太いこと!その巨木と背景の富士との対比も大胆であるが、巨木に驚嘆した旅人が童心に帰り、手をつないで大きさをはかろうとするしぐさがいかにも人間らしい。画中に漂う雲の形までユニークな空気を醸し出している。 (「冨嶽三十六景《甲州三嶌越》 文化遺産オンライン」より)]
夕月の碑前から見た富士山山頂。
「駿州江㞍」(wikipedia-photo)
[江尻は、現在の静岡県清水市。上空に舞い上がる懐紙や笠。傾いた木から舞い散る木の葉。笠を抑え、身を屈める旅人たち。画中に流れる強い風をこれほどまで巧みに描いた画家がかつていたであろうか。それら風に翻弄される事物とは対照的に悠然とそびえる富士が、確かな存在感をもって描かれている。北斎は強い風の表現を、このシリーズ以外でもいくつか試みている。 (「冨嶽三十六景《駿州江尻》 文化遺産オンライン」より)]
「東都浅艸本願寺」(wikipedia-photo)
[近景には浅草にある東本願寺本堂の大屋根が描かれ、遠景には富士が見えるという北斎得意の構図です。中景には、櫓が立ち、そして凧が揚がる市中の風景が雲間から覗いています。ほとんどの解説書は、富士と本堂の三角の相似形が作品の中核をなすと説明しています。
確かにその通りですが、なぜ三角の相似形が重ね合わされているのかを、さらに絵解きする必要があるのではないでしょうか。そして、そのヒントは、江戸で流行った富士塚にあると考えています。富士塚は富士山に似せて造った塚ですが、その塚に詣ることは、実際の富士に登山し、お詣りすることと同じ意義があると当時理解されていました。つまり、同じ形の物(もの)には、同じ霊(もの)が宿るという心情が根底にあるのです。
したがって、この庶民心情からこの作品を見れば、手前の本堂の大屋根は、富士塚と同様に富士の神霊を宿す場所なのです。と考えれば、屋根の上で瓦職人が補修の作業をしていますが、これも北斎が意図的に描き入れたことが導き出されます。屋根の上で仕事をする瓦職人は、本堂大屋根という富士塚の頂上付近にいることとなり、それは、富士の頂上に登山しているのと同じ理なのです。
この作品は、東本願寺の本堂大屋根背後の富士の風景を描くことに重点があったのではなくて、大屋根で仕事をする瓦職人がいつのまにか富士世界と一体化しているところに構図の面白さがあるのです。近景の浮世にこそ、富士の神霊世界が展開されているのです。よく見ると、屋上左の二人の瓦職人は、(瓦の)雲の上にいるかのように描かれています。 (「冨嶽三十六景「東都浅艸本願寺」 – 浮世絵に聞く!」より)]
「相州梅澤左」(wikipedia-photo)
[「梅澤左」は「梅澤在」か「梅澤庄」の誤刻だといわれている。現在の神奈川県二宮町梅沢地区あたり。夜明けにあわせ、2羽の丹頂鶴が水場より羽ばたいていく、一時の清廉な空気を描き出している。水場の4羽の丹頂鶴は、その羽毛の描写にいたるまで、驚くべき観察がなされている。 (「冨嶽三十六景《相州梅澤左》 文化遺産オンライン」より)]