富嶽三十六景-3.「前北斎為一筆」(「為」がやや縦長)

「下目黒」(wikipedia-photo)

[江戸時代目黒は田園であった。この絵は左右相対、シソメトリカルに描かれ、中央に富士山の遠望で絵をしめている。
「神奈川沖浪裏」の図法を段畑で用いた感じである。田夫、田婦、鷹狩りの侍の配置もいい。目黒あたりは、大名の鷹狩りの遊び場であった。田舎家と段畑の描写がいささか混み入っているが、これは北斎の画法であって、そのために鍬をかついだ農夫が高い松の木と対称的に生きている。  (「下目黒 – 葛飾北斎」より)]

「上總ノ海路」(wikipedia-photo)

[「上總」(上総)は現在の千葉県中央部にあたり、東京湾側に限ると、北から、千葉市市原市袖ケ浦市木更津市君津市富津市が該当する。画題の富嶽は遠景の水平線上にあり、上総側から見ていることになる。
本図の富士の麓に伸びる陸地は富津岬と考えられることから、現在の富津市の金谷浦・湊浦付近の浦賀水道の沖合からの風景ではないかと推測される。
五大力船」あるいは「弁財船」を近景に大きく描く「近接拡大法」を採るが、この手法は、歌川広重の『名所江戸百景』に取り入れられ、明治の油画々家高橋由一にも継承される。
五大力船をよく見ると、2艘描かれている。近接拡大法の為、後ろの船は随分小さく見えるが、帆の張り方や船首の向きは、前面の船と同じである。2艘を同調させることによって、絵の求心力を高めている。
前面の帆と、帆柱先端と船首とを繋ぐ「筈緒(はずお)」の間から、富嶽を見せる手法は、河村岷雪の『百富士』からの援用が考えられる。
水平線は僅かに弧を描いており、左側に船の帆が10張り確認できる。遠景に船を配するのは、岷雪『百富士』の「常州牛堀」でも見られ、北斎への影響がうかがえる。
海面と空には「ベロ藍」が用いられている。海面が遠くなるにつれ、徐々に薄くし、水平線で再び濃く摺っている。空も、地表面は濃く、高位置は素地のまま、最上部で大変濃く摺り、地との際を「雑巾がけ」でぼかしている。  (wikipedia・上總ノ海路より)]

「登戶浦」(wikipedia-photo)

[登渡神社の鳥居付近の浅瀬で汐干狩りにいそしむ人々。貝でいっぱいになった桶を意気揚々として運ぶ漁師、世間話をする女たち、はしゃぐ子どもたち、大らかな時間の流れを感じる。大小ふたつの鳥居は本来もっと離れているが、相似形を使い、構造物の内側から富士を望むという北斎好みの構図にまとめられている。
※登戸浦(千葉県千葉市中央区
…登戸浦は、江戸湾(東京湾)の湊で江戸築地に荷揚場を持ち、年貢米や海産物を房総半島から江戸に海上輸送する拠点の一つであった。浦に臨む登戸村には、寛永21年(1644)に千葉一族の登戸定胤が創建した登渡神社(妙見宮)が鎮座し、境内には富士塚が存在する。  (「25:登戸浦 – 博物館資料のなかの『富士山』: 山梨県立 …」より)]

「東海道吉田」(wikipedia-photo)

[『三十六景』全図の内、「常州牛堀」「尾州不二見原」に次いで、富士から3番目に遠い位置(約140km)より描いている。
宿の正面に「不二見茶屋」とあるが、1844-51年(弘化元-嘉永4年)刊行の夏目可敬編『参河国名所図会』(みかわのくにめいしょずえ)によると、現在の愛知県豊橋市下五井町に存在していたことがわかる。
北斎は名古屋へ2度赴いており、京畿八道へも2度訪れた可能性があるため、茶屋に寄ったかもしれない。但し、実際に富士が見られたとしても、もっと小さな姿だろう。
構造物(ここでは、窓)の間から富士を覗かせる手法は、『三十六景』の「深川万年橋下」「尾州不二見原」「上總ノ海路」「登戸浦」(のぼとうら)でも見られる技法であるが、このような構図は、河村岷雪の『百富士』の影響を受けたと指摘される。
向かって右に腰掛ける2人の男の笠には、版元の「永」の字と版元印(山型に)がこっそり描きこまれている。向かって左の男2人は駕籠かきで、畳に座る女を乗せて来たばかりなのか、月代を拭い、草鞋を木槌で叩いて柔らかくしている。
看板には「御茶づけ」「根元吉田ほくち」とある。「ほくち」は吉田宿の特産品であった。
男女の着物・荷物・暖簾・看板・空(ぼかしを入れる)・富士には「ベロ藍」が、主版(おもはん)には在来の藍が用いられている。  (wikipedia・東海道吉田より)]

「礫川雪ノ且」(wikipedia-photo)

[北斎の「冨嶽三十六景」中、唯一の雪景色である。「雪ノ且」の且は旦の誤り。夜のうちに積もった雪で、江戸の町はすっかり銀世界に変わった。起伏の多い小石川のあたりでも特に眺めのよいこの茶屋は、朝から雪見客で賑わっている。女性が指す方向に小さく描きこまれた三羽の鳥が空の高さと広さを表している。
※小石川(東京都文京区)
…小石川は、小石川台と小日向台との間を流れる小石川(谷端川)の下流域一帯の地名。漢語風に礫川とも呼ばれた。沼沢地が広がっていたが、慶長7年(1602)に寿桂寺が徳川家康の生母於大の菩提所伝通院となったほか、水戸徳川家の上屋敷や町屋が開発され、江戸の市街地に編入された。小石川台の南端金杉にある来たの神社(牛天神北野神社)は、牛の絵馬を祭ると疱瘡にかからないと伝えられている。本図は、北東から南西へ、伝通院または来たの神社付近の茶屋からの眺望と考えられている。  (「21:礫川雪ノ旦 – 博物館資料のなかの『富士山』: 山梨県立 …」より)]

  富嶽三十六景-2.「前北斎為一笔」     富嶽三十六景-4.「前北斎為一筆」(「為」が正方形に近い、主版が藍摺)