「御厩川岸ゟ両國橋夕陽見」(wikipedia-photo)
[隅田川岸に幕府の御厩があったので、この辺り(台東区蔵前二丁目辺りの隅田川の岸)この辺を御厩河岸と言いました。
対岸の本所一丁目を結ぶ渡し船があり、北斎はこの渡し船を描いた。特徴的なのは渡し船の手間に見える波です。非常に美しい藍色の大波は今まさに出発して状態を描いています。
対岸の左手に見える両国橋は沈む夕日の逆光が良く現しています。両国橋がシルエットとして描かれています。この両国橋の技法は輪郭線のない無線摺りという技法です
段々と日が沈んでいく様子を表しています。
船頭の頭を回転軸として両国橋と舟の弧線が点対称になって船頭に視線の先に富士が見えます。
舟に乗っている人たちは商人でしょうか、一日の終りを現しています。 (「富嶽三十六景 御厩川岸両國橋夕陽見(おんまやがしよりりょう …」より)]
「東海道江尻田子の浦略啚」(wikipedia-photo)
[現在:静岡県静岡市清水区由比・駿河湾沖
歌枕で知られる 田子の浦
田子の浦は昔から歌枕として知られています。特に万葉集の山部赤人のうたは有名です。「田子の浦ゆううち出でてみれば真白にぞ富士の高嶺に雪は降りけり」この歌は海から見た富士の美しさを愛でたものとしてとても有名です。
浜辺の塩焼きは田子の浦の名物で塩焼きの様子も描かれています。この塩焼きも古歌に詠まれています。
二艘の船が荒波の揺られて、漕手たちは必死で渾身のちからをこめて艫(ろ)を握って漕いでいるさまが見えます
この図は2艘舟の弧線が富士の稜線と相まって呼応して響き合う様が素晴らしいです。
また不思議なのはこの題の「略図」であるなぜ略図なのか「略図を」「やつし図」(洒落)と読んで「古歌」をアレンジしたとの説もあります。 (「東海道江尻田子の浦略啚(とうかいどうえじりたごのうら …」より)]
「葛飾北斎の東海道江尻田子の浦略圖(富嶽三十六景)の解説」(「東海道江尻田子の浦略圖」は沼津市西浦付近から描いたと結論付けても良いと思います。)
西浦木負消波堤灯台鳥瞰カメラから見た富士山。
「相州江の嶌」(wikipedia-photo)
[北斎には珍しく、誇張や演出をほどこさない自然な景観を描いている。干潮時に江の島は片瀬海岸と陸続きとなるが、ちょうど砂洲の参道が現れ始めたのか、参詣者は皆これからお参りに行くところである。土産物屋や旅籠が立ち並ぶ様子も写実的である。画面の下辺を霞で縁取ったのは、聖域を表現するための瑞雲としてであろうか。波打ち際のきらめきや波の泡の描写が秀逸である。
※江の島(神奈川県藤沢市)
…相模湾の海上にある江の島は、砂嘴(さし)で対岸の片瀬村とつながる陸繋島であり、徒歩で参詣が可能であった。図中に描かれた三重塔は、江島神社上之宮の塔であり、元禄7年(1694)に創建された。 (「35:相州江の島 – 博物館資料のなかの『富士山』: 山梨県立 …」より)]
江の島大橋から見た富士山
「江戶日本橋」(wikipedia-photo)
[江戸日本橋は東海道の起点でもあり、江戸の中心であった。その繁華、往来の多いことでも知られ、北斎は日本橋の橋を描かずに、その雑とうを、橋上の人物によって画面の下の方に描いたところに北斎のすぐれた着想がある。
川を縦に見て左右の白壁の倉庫を左右相対的に描き、その頂点に干代田城。左へはずして富士の遠望である。この絵はまことにこの揃物の中心的な絵である。 (「江戸日本橋 – 葛飾北斎」より)]
「江都駿河町三井見世略圖」(wikipedia-photo)
[これは、素晴らしい春景色である、沖天には凧が舞い日本橋駿河町の三井見世(今の三越)を両角にした通りの正面に白雪を頂いた富士山が端然と描かれている。
しかも、右手の呉服店の大屋根には3人の屋根屋が、瓦の修理をしている。その姿がいかにも動的で、生き生きとして、この絵をさらに清新たものにしている。風景に働くものの姿を描き込むことで北斎は、いつも風景白身をわれわれと身近かにしている。 (「江都駿河町三井見世略図 – 葛飾北斎」より)]
「相州箱根湖水」(wikipedia-photo)
[作品中央部、湖畔やや右に、山岳信仰の霊場、箱根神社が描かれています。主祭神の一柱には、木花開耶姫命が祀られ、まさに富士の神霊世界そのものが描かれています。したがって、厳かな、やや類型的描写となっているのです。「信州諏訪湖」で述べましたが、湖水図一般には、富士の水神としての世界が描かれていることが多いのです。本図もそれに該当しています。
富士は冠雪する頂上部分のみが見えているに過ぎません。一方、芦ノ湖は藍一色の湖水として表現されています。ここで思い出していただきたいのですが、「武州玉川」では、富士の山腹と玉川ともに藍の同系色で摺られ、富士と玉川とが一体となって、さらに大きな富士に見えました。「箱根湖水」でも、芦ノ湖が富士の山腹を直接構成し、全体でさらに大きな富士を形造っているのです。このような表現を採ることによって、芦ノ湖が富士神霊の一部であることが色彩的に理解でき、また、湖畔の箱根神社の霊験もいかばかりのものと映ることでしょう。 (「冨嶽三十六景「相州箱根湖水」 – 浮世絵に聞く!」より)]
大観山から富士山と芦ノ湖(wikipedia-photo)
「甲州三坂水面」(wikipedia-photo)
[甲府盆地から河口湖へ抜ける御坂峠から望む逆さ富士。穏やかな湖面と落ち着いたたたずまいの村落によって、静謐な景観となっている。実体の富士は夏であるのに、湖面に映る姿は雪をいただき、左にずれて描かれている。本来、逆さ富士は河口湖畔まで来ないと確認できない。本図は御坂峠から富士山麓を見渡した光景と、峠を下ってきて逆さ富士を目にしたときの、両方の感動が込められているのであろうか。北斎の奇抜な発想と構成力がよく現れている一枚。
※御坂峠(山梨県富士河口湖町・笛吹市)
…御坂峠は、甲府盆地と富士山麓との間にある鎌倉往還の峠。本図は峠を下り、河口湖畔から富士を望む。中央左よりの湖上の島が鵜の島。その左側の建物は妙法寺と考えられる。中央の集落は勝山村であり、その右手前には河口湖南岸にある大原七郷の鎮守で中世には富士信仰の拠点の一つとなった冨士御室浅間神社の杜が見える。右端の足和田山の麓の集落は長浜村。 (「29:甲州三坂水面 – 博物館資料のなかの『富士山』: 山梨 …」より)]
「葛飾北斎の甲州三坂水面(富嶽三十六景)の解説 – 富士五湖TV」(「甲州三坂水面」の視点は従来から信じられていた御坂峠ではなく、「勝山湖畔沖」が新しい解釈です。さらに付け加えると、北斎は現在の富士ビューホテル沖から冨士御室浅間神社の方へ船を移動させてた「パノラマ風景を左右に縮めて」描いています。当時は勝山集落の対岸にある河口集落か大石集落から船で渡るルートが一般的でしたので、その道中でスケッチしたと解釈するのが自然かもしれません。)
河口湖逆さ富士(wikipedia-photo)
「隠田の水車」(wikipedia-photo)
[現在都会を代表する原宿は、かつては農村地帯で、今は暗渠になってしまった渋谷川にはたくさんの水車があった。粉を挽くために穀物が入った重い袋を担ぎ上げる男たち、洗い物をする女性たち亀をつれている子どもの姿には、農村のたくましい生活感がある。北斎はここでも水の表現を試みており、水車の回転とともに変わっていく水の瞬間の形を留めようとしている。
※隠田(東京都渋谷区)
…江戸の南西の郊外に位置する隠田村は、渋谷川の流域であり、江戸時代後期には水車が渋谷川に設けられていた。 (「34:隠田の水車 – 博物館資料のなかの『富士山』: 山梨県立 …」より)]
[玉川上水ができる前は流量の多い川ではなかったが、1653年の同上水完成後は四谷大木戸(現在の四谷四丁目)近傍の水番所から余剰水を流すことで渋谷川(穏田川)の流量が飛躍的に増えた。 これにより水車掛けが可能になり、とくに穏田川(渋谷川上流部)には複数の水車が作られた。 (wikipedia・渋谷川#江戸時代より)]
「東海道程ヶ谷」(wikipedia-photo)
[程ヶ谷は現在の横浜市保土ヶ谷区。程ヶ谷宿近くの品野坂は松並木が見事であったという。北斎はその松の枝振りを見事にとらえて描いている。前面の人物の描写も面白い。特に中央の馬子が、松の間から見える富士を仰ぎ眺めているが、この男のしぐさによって、遠方の富士との距離感が一気に伝わってくる。この馬子が牽く馬や背には永寿堂の家紋が見える。また、富士もよく見ると南側(画面左側)の斜面の雪が解けていて、描かれた季節が晩春であることがうかがえる。初摺りのイメージの版では人物の歩く地面や富士の裾野の山々に、明るい緑色が配されていたが、この版では藍色を主とした配色が施されている。 (「冨嶽三十六景《東海道程ヶ谷》 文化遺産オンライン」より)]
「隅田川関屋の里」(wikipedia-photo)
[関屋の里とは、現在の千住仲町から千住関屋町付近を示し、江戸時代には風光明媚な土地として知られていました。江戸の人々は、帆掛け船の行き来する隅田川と、桜の咲く穏やかな自然に恵まれたこの一帯を「関屋の里」としてとらえ、冨嶽三十六景以外にも、江戸名所百景、隅田川八景、江戸名勝図会「関屋の里」(右図・画像リンク)など数々の浮世絵に描かれています。とくに、桜の咲くなかでくつろぐ人々が画題となっています。
こうした美しい場所であったこともあり、「関屋巣兆」として知られる俳人建部巣兆(たけべそうちょう)の庵、秋香庵(しゅうこうあん)も関屋の里に結ばれました。
「隅田川関屋の里」では、疾走する馬と右端に見える高札場、とくにそれ以外のものは描かれていません。生い茂る草を水平線として富士山が見えます。高札場としては現在の千住一丁目と千住仲町との千住小橋南側(現在の千住仲町側)の高札場が知られていますが、この「隅田川関屋の里」に描かれた高札場とは異なるものです。
ここで人馬が走る道は、石出掃部介の新田開発によって元和2(1616)年に築かれた掃部堤(かもんづつみ)、現在では墨堤通りとよばれている道です。
『江戸名所図会』に、「此辺を関屋の里という」の添え書きとともに、掃部堤が描かれています。(上画・『江戸名所図会』氷川神社と掃部堤・画像リンク)
画の中央は千住仲町の氷川神社(千住仲町48-2)です。境内には、関屋の里から移設された関屋天満宮も描かれています。掃部堤から氷川神社に至る道は、現在ミリオン通り商店街といわれる通りになっているものと考えられます。この交差点には庚申塔が祀られ、集落との分岐点となっているようです。
冨嶽三十六景「隅田川関屋の里」に描かれた地点はこのあたりだと推察されます。掃部堤を進んで日光道中を横切ると、現在の千住緑町付近にあたる「牧の野」とよばれた低地が広がっていました。千住町が茅場として使用していた地域で、浮世絵には、この茅場が描かれていると考えられます。
北斎は他の浮世絵師と異なり、関屋の里の嫋々とした風景をとりあげず、疾走する馬をとりあげ、堤防に生える松、茅の茂る遠景という力強い風景を描いたといえます。 (「隅田川関屋の里 冨嶽三十六景 – 足立区」より)]
「五百寺さゞゐどう」(wikipedia-photo)
[深川(江東区大島3丁目)にあった五百羅漢寺の三階からの眺め。螺旋状の階段を登ることから栄螺堂と呼ばれ、その眺望は人気があったという。人々の視線や手のしぐさ、床の板目や屋根の勾配など、西洋の遠近法でいうところの消失点が富士に集中しているところは、いかにも北斎らしい試みが伺える。左端の老人が背負った風呂敷には、山型に巴紋の永寿堂の家紋が見える。初摺りのイメージの版には左下に改印(極)、版元印(永寿堂)があり、川面のぼかしに版木の木目を使った表現が鮮明に見え、稚児の着物地の柄の出し方や、墨色の強弱に違いが見られる。 (「冨嶽三十六景《五百らかん寺さゞゐどう》 文化遺産オンライン」より)]
富嶽三十六景-3.「前北斎為一筆」(「為」がやや縦長) 富嶽三十六景-5.「前北斎為一筆」(「為」が正方形に近い、主版が墨摺)