「身延川裏不二」(wikipedia-photo)
[沸き立つ霧と屹立(きつりつ)した山々の間に富士の頂がのぞく。その下には波が折りたたむように描かれ、水量の多さと流れの速さを表現している。その迫ってくるような景観を眺めながら、旅人たちは川沿いの身延道を行き交う。彩度の高い色調でぼかしや点描を駆使し、黒の輪郭線でひき締めることで、鮮明な画面に仕上がっている。
※身延川(山梨県身延町)
…「身延川」は、これまで富士川を指すと考えられてきた。しかし、『甲斐国志』によると、身延川は身延山中に源流を持ち、日蓮宗の総本山久遠寺の周辺を流れ、波木井川に合流する川を指す。甲斐国と駿河国とを結ぶ駿州往還は、身延山への参詣道であったことから身延道とも呼ばれた。本図は、久遠寺門前の身延道沿道の様子と考えられる。 (「41:身延川裏不二 – 博物館資料のなかの『富士山』: 山梨 …」より)]
「従千住花街眺望ノ不二」(wikipedia-photo)
[緻密な描写で日光道中(奥州道中)沿いの景観を描いている。猩々緋(しょうじょうひ)の附袋を被せた鉄砲と毛槍の隊列は国元へ向かう盛岡藩(南部藩)の行列と考えられている。画面奥の塀に囲まれた整然とした家並みは花街、遊郭である。近景の右方向へ進む大名行列、中景に稲刈りも終わった田圃、遠景の花街と富士、この三層をまっすぐに伸びた畦道が結ぶ。その真ん中で休息をとる二人の農婦が面白そうに行列を眺めている。
※山谷(東京都台東区)
…日光道中から、板塀に囲われた新吉原(吉原遊郭)を手前に富士を望む。手前の緑地は遊郭への通路となった日本堤であろう。『江戸切絵図』(今戸箕輪浅草絵図)には、吉原遊郭から北東へ日光道中に直接向かう道があり、図中で女性が座って行列を眺める道と一致する。表題は千住となっているが、隅田川右岸の浅草山谷町付近からの風景と推測される。 (「葛飾北斎 冨嶽三十六景 – 博物館資料のなかの『富士山 …」より)]
「駿州片倉茶園ノ不二」(wikipedia-photo)
[駿河は御茶の名産として有名であったので、このような大規模な茶園もよく見られたのであろう。開放的な空気の中で働く女や男たちの姿が微笑ましい。ただし、片倉がどのあたりであるかはいまだにわかっていない。画中の二頭の馬には茶園とは無関係であるはずの版元の永寿堂の家紋が見える。これまでの版図にもあったように、このように細かいところにまで宣伝が施されているのは、浮世絵版画の世界の版元間の競争が激しいゆえの宣伝であったとの見方もある。この版は、初摺りのイメージのものから、色数を抑え、藍を主体として摺られている。 (「冨嶽三十六景《駿州片倉茶園ノ不二》 文化遺産オンライン」より)]
[「展覧会は私が美術専門の学芸員といっしょに取り組みました。図録はとても人気で(初版は)すぐに売り切れてしまいました」と西川准教授。「展示を2回やりまして、2回目の時に再版したのです。その時に追加できる情報はないか、ということで『駿州片倉茶園ノ不二』について調べました」
第二版の図録の「駿州片倉茶園ノ不二」の項には、絵の解説とあわせて「片倉(静岡県富士市)」として以下の説明が記されている。
『~略~江戸時代、麦・粟・大豆・小豆・芋・茶を生産していた愛鷹山麓の中野村(富士市)の小字に東片倉・西片倉があり、同所から望んだ富士と考えられる』
「冨嶽三十六景は場所や地名をあげて、どこから見た富士ということで描かれています。この絵は駿州とあるから駿河、静岡ということは特定できるけれど、片倉という地名ですね。それが結局、村の名前として江戸時代にはないのです。だからこの図録をつくる前の段階まではどこを描いたのかわからなかった。私も当初、不明と考えていました。しかし、片倉村はないけれど富士郡中野村に片倉という集落があることがわかったのです」
「角川日本地名大辞典」(角川書店)や「日本歴史地名大系」(平凡社)を見ると、中野村には三倉(ミツクラ)や片倉の字(あざ)があることが記されていて、中野村では麦・粟・大豆・小豆・芋などとともに茶も生産されていたと記されている。「今でこそ静岡は茶所でいろんな所でお茶をつくっていますが、それは幕末から明治維新以降に産業育成していった結果です。江戸時代には、今のようにどこでもお茶を生産していたわけではなかった。限られた地域の中で、中野村でお茶を生産していることが江戸時代の記録に出てくるので、富士郡の中野が候補に当たるのではないかと考えて提示させていただいたのです」。第二版の「駿州片倉茶園ノ不二」の項に片倉の説明書きを加えた経緯について、西川准教授はこう説明した。 (「北斎の冨嶽三十六景 「駿州片倉茶園ノ不二」はどこを描いた?」より)」
「東海道品川御殿山ノ不二」(wikipedia-photo)
[「東海道品川御殿山ノ不二」 で描かれる御殿山は桜の名所として有名で、花咲く桜越しに富士を眺望する構図ですが、主体は桜見物をする人々、接客する人々を近景に鳥瞰する作品です。富士浅間神社の祭神が木花開耶姫命であることを思い起こせば、近景に展開するのは、この世の木花開耶姫命の世界であることが直ちに理解されることでしょう。
この世の木花開耶姫命の世界は、身分の違い、男女の違いに関係なく、また、大人や子供も楽しめる所として描かれています。普遍する富士世界の描写です。題名は「御殿山ノ不二」となっていますが、作品の趣向は、「御殿山が富士」世界であることを謳うものです。画中左で酒を酌み交わす三人は、ここが富士頂上と同様であることを示すもので、その下に見える品川宿のお寺と思しき三角の瓦屋根は、さらに近景に富士世界があることを補強する工夫と思われます。 (「裏富士「東海道品川御殿山ノ不二」 – 浮世絵に聞く!」より)]
「甲州伊沢暁」(wikipedia-photo)
[「甲州伊沢暁」(こうしゅういさわのあかつき)は、葛飾北斎の名所浮世絵揃物『富嶽三十六景』全46図中の1図。
江戸時代後期の浮世絵師葛飾北斎による富士山を描いた富士図の連作で、天保2年(1831年)から天保4年(1833年)頃にかけて刊行された。全36図、追加10図のうち甲斐国の裏富士を描いた図は6図あり、「甲州伊沢暁」では甲州街道の宿場である石和宿(笛吹市石和町)から望んだ富士を描いている。
ほのぼのと明るくなった早朝の風景で、遠くに見える富士は闇をまとっている。宿内には出立する人馬の様子が描かれている。
位置関係から石和宿北方の大蔵経寺山からの眺望であると考えられており、画面右下に大蔵経寺山が見え、手前に甲州街道と石和宿、奥に鵜飼川(笛吹川)と鎌倉往還の板橋が見える。画面右端の続きには北斎も帰依していたと考えられている日蓮宗の寺院である遠妙寺(笛吹市石和町市部)が所在しているが、画面には描かれていない。
実際に石和宿からは御坂山地に遮られて富士を望むことはできないが古くから名所として知られ、石和宿は明和4年(1767年)の河村岷雪『百富士』においても描かれている。 (wikipedia・甲州伊沢暁より)]
「本所立川」(wikipedia-photo)
[材木置き場の材木の隙間にようやく富士の姿を見つけることができる。縦方向の直線を強調した構図をとる。木材を高く投げ挙げる動きには、『北斎漫画』に代表される北斎の巧みな人体表現を確認することができる。よく見ると、札や材木に「新板三拾六不二仕入」などの墨書があり、版元西村永寿堂による新作「冨嶽三十六景」の宣伝が入っている。
※本所(東京都墨田区)
…隅田川の東岸に位置する本所は、明暦の大火(1657)の後、新たに江戸の町場として開発された。地内を流れる堅川の北岸本所相生町一丁目から五丁目にかけての沿岸は北河岸と呼ばれ、材木屋が建ち並んだ。南岸の弁財天や堅川にかかる一之橋、二之橋、南岸の六間掘が描かれていないことから、相生町二丁目、三丁目付近から対岸の松井町一丁目一丁目付近を見た様子と考えられる。 (「37:本所立川 – 博物館資料のなかの『富士山』: 山梨県立 …」より)]
「東海道金谷ノ不二」(wikipedia-photo)
[「箱根八里は馬でも越すが越すに越されぬ大井川」と詠われた東海道最大の難所である大井川。現在の静岡県金谷町である金谷の宿から、対岸の島田の宿、現在の島田市が見える。江戸時代、架橋、渡船が禁じられていた大井川では川越しの人足や馬の背に、荷駄や人を乗せる徒渡し(かちわたし)が行われていた。まるで、海のように波打つ川を、金谷宿と島田宿の双方から徒渡しで往きかう旅人や荷駄が描かれている。向こう岸には堤防が波のうねりと呼応するような形で描かれている。島田宿の掲げられた旗には永の字が、徒渡しの長持ちには寿の字が、旅人の風呂敷にも寿の字や家紋が見える。 (「冨嶽三十六景《東海道金谷ノ不二》 文化遺産オンライン」より)]
「相州仲原」(wikipedia-photo)
[江戸に近い霊山として信仰を集めた大山へ至る道である。参詣に向かう巡礼の父子や、厨子を背負って諸国を行脚する六十六部、行商人など各地からの旅人が行き交う。赤子をおぶり鍬や鉄瓶、弁当を持って野良仕事にでかける農婦や、川に入って蜆を採る農夫、鳥追いの鳴子や民家の屋根に、この土地のくらしが見える。右端の男の荷物には版元西村屋の紋がある。登場人物の役割が説明的で、往来の通過点で展開される芝居の一幕のようである。
※中原(神奈川県平塚市)
…江戸に向かう中原道と大山参詣に利用された大山道が交わる中原宿は、文禄4年(1595)から明暦3年(1657)まで、徳川家康が鷹狩りや駿府と江戸との往来の際に来訪した中原御殿があった。本図は大山道から富士を望む。図中にある石仏は、大山寺の本尊である不動明王であり、大山道沿道に祀られていた。河川中原上宿の北側を流れる渋田川(通称玉川)と考えられ、中原宿の北端からの眺望と推測される。 (「42:相州仲原 – 博物館資料のなかの『富士山』: 山梨県立 …」より)]
「駿州大野新田」(wikipedia-photo)
[芦を山のように載せた牛を引く農夫、背負子一杯に青物を積んだ農婦、そして白鷺たちも、みな夕陽を背にして家路につく。沼地の静けさと仕事帰りの安堵感が漂う。
※大野新田(静岡県富士市)
…大野新田は東海道の原宿(静岡県沼津市)と吉原宿(富士市)との間につくられた新田集落。本図は、富士沼(浮島沼)と沼川の南岸を通る大野新田周辺の東海道から富士を望む。富士沼は愛鷹(あしたか)山の南麓に広がる低湿地帯であり、古代・中世以来東海道からの眺望により、景勝地となっていた。 (「43:駿州大野新田 – 博物館資料のなかの『富士山』: 山梨 …」より)]
浮島ヶ原自然公園から見た富士山(Google Map 画像)
「諸人登山」(wikipedia-photo)
[金剛杖を使って登るもの、疲れて腰を下ろすもの、岩室で体を休めるものなど、富士山頂付近の富士講の人々が描かれている。しらみはじめた空に朝焼けの雲がたなびいている。御来光はまもなくである。「冨嶽三十六景」が信仰の山である富士を主題としていることを改めて強く意識させる一枚である。
※富士山頂
…富士山の山頂は、火口を内陣(御鉢)、その周囲の高所を八葉と称し、大日堂ほかの祠を巡る、お鉢廻りの信者で賑わった。本図には、大日堂に至る駒ケ岳付近の参道に設けられた梯子の様子が描かれている。 (「46:諸人登山 – 博物館資料のなかの『富士山』: 山梨県立 …」より)]
「葛飾北斎/画『富岳百景』」 – 「不二の室」