マーカーは旧江戸町標柱です。
江戸町
[老中首座で「知恵伊豆」と呼ばれた松平信綱によって形作られた川越の町割は、「十ヵ町四門前町」(じっかちょうしもんぜんまち)に郷分・城付を設けた合理的なもので、三方を低地と河川で囲まれた防衛に最適な台地の形状に合せて城と城下町が配置された。台地の北端に城と、その本丸の北側に総鎮守の氷川神社が置かれた。表玄関である西大手門の前は伝馬問屋の置かれた江戸町で、そこを基点に南方に川越街道が江戸まで伸びた。西大手門から西へ進む先には高札場である「札の辻」が設けられた。ここを軸に縦二十三条、横七十八条の概ね碁盤の目状に町割がなされた。また、袋小路・鉤の手・七曲り・丁字路など城下町特有の街路が作られた。札の辻を中心とした一帯が城下の商人地区である上五ヶ町である。その目抜き通りが今日では蔵造りで有名な「一番街」である。町屋は概ね間口数間、奥行15間から20間の短冊型に区切られた。上五ヶ町に隣接して時の鐘も建つ職人町の下五ヶ町があった。ここまでが町奉行の管轄であった。一番街のさらに西側には養寿院、蓮馨寺、行伝寺、妙養寺が4つの門前町を形成した。町火消しはここまで担当した。本丸の周囲には内堀が張り巡らされ、その南側に武家屋敷が建ち並んだ。家老屋敷などは南大手門周辺に、下級藩士は、川越街道の入口近くの組屋敷に住まわされた。そのさらに南側は江戸幕府の直営社であった喜多院や仙波東照宮が広大な寺領を構えた。これは軍事的配置でもあった。その南方には川越の外港である川越五河岸が設けられ、大きな物資は船でしか運べなかった時代の川越の物流拠点であった。
●江戸町(えどまち):川越街道の基点があった。人馬継ぎ立てをする問屋や蔵米の点検をする改があった。 (wikipedia・川越城より)]
カメラ南西方向に旧江戸町の標柱があります。