彦根藩井伊家岡崎屋敷跡

マーカーは彦根藩井伊家岡崎屋敷跡です。

井伊直憲
[井伊直憲は、安政7年(1860年)3月3日の桜田門外の変で父・直弼が暗殺された後、彦根藩は幕閣の政治的配慮により取り潰しを免れ、万延元年(安政から改元)4月28日に13歳(数え年)で家督を相続した(直弼の死はただちに知れ渡っていたが、藩は形の上で直弼の存命を装い、跡目相続の手続きを認められた)。大老として辣腕を振るった父とは対照的に地味な性格だった。
文久2年(1862年)11月20日、松平春嶽らによる幕政改革(文久の改革)において、父・直弼の専横・圧政を糾弾され、25万石へ減封された。これに先立ち、家老・岡本半介の進言を受け入れて、父の腹心であった長野主膳宇津木景福を処刑しているが、処分は緩和されず、譜代筆頭でありながら幕府との関係は険悪化する。それでも天誅組が挙兵した時は幕命により出兵し、鎮圧に貢献した。
元治元年(1864年)4月18日、左近衛権中将に転任。掃部頭如元。池田屋事件禁門の変での功により同年8月22日、旧領のうち3万石を回復する。
慶応2年(1866年)、第二次長州征討では高田藩兵とともに彦根藩兵が芸州口の先鋒となったが、大村益次郎の訓練を受けた長州藩諸隊の散兵戦術に旧式の装備・戦法で臨んだため、大敗を喫する。以後、藩内では谷鉄臣や大東義徹ら勤王派が台頭し、徳川慶喜に近い岡本半介の影響力が低下する。
慶応4年(1868年)、戊辰戦争では前哨戦となる鳥羽・伏見の戦いで、谷鉄臣らの藩兵が最初から新政府軍に属して東寺大津を固めた。その後、東山道鎮撫総督に属し、近藤勇の捕縛に加わったが、小山の戦闘大鳥圭介らの旧幕府軍に撃破される。彦根藩兵はその後、白河口から会津に転戦する。
明治2年(1869年)6月、戊辰戦功により賞典禄2万石を付与された。谷や大東、西村捨三ら下級武士出身者主導の藩政改革を承認し、人材登用を推進する。同年7月8日、彦根藩知事となる。  (wikipedia・井伊直憲より)]

西尾市岩瀬文庫/古典籍書誌データベース – 京町御絵図細見大成(成立西暦・1868年)」(絵図中央右方向・三条大橋左下方向に彦根(彦根藩邸跡碑)と描かれています。絵図四つ切右上、相国寺右上、上御霊社右に描かれる彦根屋敷は、「「京都御備」としての安政期の湖北通船路開鑿事業 : 彦根藩と小浜藩との対立を軸とした通説の根本的再検討を通じて」に『彦根藩の陣屋地は、安政 4 年暮に鞍馬口辺 (上御霊神社北側) に決定され、翌安政 5 年 8 月から土地収容 (替え地) が始められるなど作業が開始され完成したものの、「明治七年以前には取りこわされて町家となっ」たという。」と記述されています。また、鴨川の右、聖護院下、熊野神社右にも彦根ヤシキが描かれています。)

国際日本文化研究センター – 大成京細見繪圖 : 洛中洛外町々小名(元治元・1864年)」(絵図中央右端、鴨川右に彦根ヤシキが描かれています。)

カメラ位置は東山丸太町交差点で、カメラ東方向丸太町通り両サイド一帯が彦根藩井伊家岡崎屋敷跡になると思います。