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御土居
[御土居(おどい)は豊臣秀吉によって作られた京都を囲む土塁である。外側の堀とあわせて御土居堀とも呼ばれる。聚楽第、寺町通、天正の地割とともに豊臣秀吉による京都改造事業の一つである。一部が京都市内に現存し、史跡に指定されている。
秀吉時代の御土居の位置に関する記録は現存しないが、現存する遺構や江戸時代の絵図からその位置が推定されている。
御土居の囲む範囲は南北約8.5km、東西約3.5kmの縦長の形をしている。御土居は必ずしも直線状ではなく、特に西側では数箇所の凹凸がある。全長は約22.5kmである。北端は北区紫竹の加茂川中学校付近、南端は南区の東寺の南、東端はほぼ現在の河原町通、西端は中京区の山陰本線円町駅付近にあたる。また東部では鴨川(賀茂川)に、北西部では紙屋川(天神川)に沿っており、これらが堀を兼ねていた。
御土居の内部を洛中、外部を洛外と呼んだ。ただし、御土居の内部であっても鞍馬口通以北は洛外と呼ばれることもあった。当時の都人の間でもこの人為的な洛中・洛外の区画は不評であったと見え、落首に「おしつけて、ゆへバ(結えば)ゆわるる十らく(聚楽)の、ミやこの内ハ一らく(楽)もなし」と詠まれた。秀吉が没して間もなく政権が徳川に移ると、御土居の外の鴨川河川敷に高瀬川が開削されてその畔には商家が立ち並んだから「洛中」は実質的に鴨川河畔まで広がったし、西部では洛外に通ずる出入り口が新たに20か所以上設けられて、洛中と洛外の農村の結びつきが強まり「町続き町」が形成されたから、ここでも実質的な「洛中」の拡大が見られた。都の人々は決して「結わるる」ことはなかったと言える。
洛中とを洛外を結ぶ道が御土居を横切る場所を「口」と呼んだ。現在でも鞍馬口、丹波口などの地名が残っている。『三藐院記』(近衛信尹の日記)によると御土居建造当時の口は10箇所であった。これら街道に繋がらない洛外への道は御土居によって閉塞され、例えば鴨川に架かっていた八坂神社に通じる四条橋は撤去され、祇園祭の神輿渡御の経路も変更を余儀なくされた。また清水寺への参詣路に位置した五条大橋(現松原橋)も撤去され、東方への街道があった六条坊門通(現五条通)の位置に新たに五条大橋が架橋された。
豊臣政権が崩壊すると、道路を分断していた部分の御土居が取り壊され多くの出入口が設けられた。たとえば現在の四条河原町付近で四条通を塞いでいた部分は1601年(慶長6年)に撤去されている。また市街地東部では、木屋町、先斗町など御土居の東側の鴨川河原まで町が広がり、1670年(寛文10年)に寛文新堤が完成して堤防としての必要もなくなったため、御土居は寺社や公家に払い下げられ、取り壊されて住宅地などになった。
ただし、これらを除く部分の御土居は多くが残り、幕府によって竹林として管理されていた。江戸時代中期には角倉家(すみのくらけ)が管理を担当していた。
京都駅0番ホーム
『JR京都駅の0番のりば(旧1番線)のホームは御土居の盛土を利用したものである』と書籍などで紹介されることがあるが、これは誤りである。このホームは1914年(大正3年)の2代目京都駅開業時に作られたものだが、それ以前の明治時代の地図でも御土居は描かれていない。また駅の位置にあった東塩小路村の記録によると、1877年(明治10年)の鉄道開通に先立ちこの地域の御土居は取り壊されたという。なお、1993年(平成5年)に行なわれたホーム西端での発掘調査で、堀の跡と思われる泥土層が見つかっている。
鷹峯旧土居町(御土居史跡公園)の御土居・wikipedia-photo
[御土居遺構の位置]
(wikipedia・御土居より)]
河原町通
[河原町通は、平安京の域外にあり、豊臣秀吉の御土居の東の外をほぼ沿うように走っており、江戸時代初期に市街地が鴨川まで拡大された際に開通したと見られる。平安京の東端である東京極大路、また豊臣秀吉が築いた御土居内側の東辺である寺町通の外側にあたるこの河原町通開削の時期ははっきりしないが、御土居がこの河原町通の西側に沿って築かれていることから、それ以降であると考えられる。1762年(宝暦12年)刊の『京町鑑』には、「中古まで寺町より東は川原なりしゆへに号す。古老曰、天正年中に開けり」とある。
都市化の契機は、角倉了以・素庵親子による高瀬川の開削であり、現在の日本銀行京都支店の場所に角倉屋敷があったことから、二条通から南は、かつて「角倉通」と呼ばれていた。 (wikipedia・河原町通より)]
京都駅0番ホームに関する紹介サイト – 「東塩小路村 : 京都停車場 ひっちょのステンショと呼ばれた駅」
京の七口
[京の出入口を表す言葉としての「口」は、鎌倉時代後半から使われていたようであるが、室町時代になるとその出入口をはじめとして、幕府、寺社、朝廷(公家)などさまざまな主体が「七口の関」と称される関(関所)を設け関銭(通行料)を徴収するようになったため、記録に関として「口」がみられるようになる。 その記録を見ると、幕府や朝廷が設置した関の数を7つとするものが見られる。たとえば、『建内記』によると、1441年に朝廷は御厨子所の率分関を、八瀬、今道の下、東寺口、法性寺、鳥羽、七条口、長坂口の七ヶ所に設置し代官をおいたとある。 ただし、各主体の関が同じ場所に設置されたわけでなく、場所はまちまちである。 また、時期によって関の数は異なっており、例えば内蔵寮による率分関については、1333年には長坂口、粟田口、大原口、四宮河原関が設けられていたが、応仁の乱以降は増加して木幡口、坂本口、鞍馬口、西口(嵯峨口)、南口、淀口、摂津芥川、納所関、辰巳口が挙げられている。
時代が下がり江戸時代に入ると、京の出入口を表す言葉として、「七口」という表現が一般的に使われるようになる。豊臣秀吉が京都改造の一環として、京の周囲を囲む惣構である御土居を築き、京の出入口を土塁に開いた「口」として具現化したことが「七口」という表現を一般的なものとする大きな役割を果たしたと考えられる。
そのため、秀吉が御土居建造当時に穿った出入口が7つであったとする俗説があるが、建造当時の出入口は『三藐院記』によると十口とあり、また、現在では京の七口として数えられていない部分にも出入口があったことが当時の史料から読みとれるとの指摘がある。そこで、「七」は数を示すのではなく、古代の日本の行政区画概念である「五畿七道」の中心にあり、その「七道」すなわち地方諸国へつながっていることを表すというのがルーツであるとする説が有力である。
[京の七口の一つとよく称される出入口と御土居] (wikipedia・京の七口より)]
[御土居断面図 (画像は「京都市:御土居」よりダウンロード)]