応仁の乱

「Google Earth で街並散歩(日本編)」で取り上げた、「応仁の乱」に関係するページをまとめてみました。

[応仁元(1467)年から文明9(1477)年までの11年間、管領細川勝元(ほそかわかつもと)の東軍と山名宗全(やまなそうぜん、持豊<もちとよ>)の西軍が戦った内乱。京都が主戦場となりました。始まった年号だけをとり応仁の乱ともいいます。
 嘉吉元(1441)年、赤松満祐(あかまつみつすけ)による六代将軍足利義教(あしかがよしのり・在任:1428年 – 1441年)の殺害(嘉吉の乱)を境に幕府体制が揺らぎはじめ、七代将軍義勝(在任:1442年 – 1443年)の病死後、八代将軍に就任した足利義政(あしかがよしまさ・在任:1449年 – 1473年)は,幕府と将軍権力の強化をねらいますが、側近は言うことを聞かず,政治は混乱し社会不安が増大しました。
 義政には男子がいなかったので、寛正5(1464)年、弟の義視(よしみ)を家督相続者として迎え、前管領細川勝元を補佐につけました。その際、もし義政に男子が産まれても僧侶とすることを約束しました。
 ところが、翌年11月,義政の夫人日野富子(ひのとみこ)が義尚(よしひさ、後に九代将軍・在任:1473年 – 1489年)を出産し、将軍家世嗣の例に従い伊勢貞親(いせさだちか)の屋敷で養育されたことから、細川勝元は日野一族や義尚の補佐役山名宗全らと対立しました。特に、細川勝元と山名宗全の対立は、足利将軍家をはじめ管領畠山(はたけやま・畠山お家騒動)・斯波(しば・武衛騒動)両家の家督争いや、守護や在地武士の利害関係と結びつき、いっそう深まりました。
 文正2年(後に応仁に改元・1467年)正月17日の夜、山名宗全の進言により将軍義政に出仕を禁じられた畠山政長(はたけやままさなが)は、自邸に火を放ち、上御霊林(かみごりょうばやし、現上京区上御霊神社附近)に陣を張りました(御霊合戦)。これが、応仁・文明の乱の発端です。御霊合戦は義就の勝利に終わり、義政が諸大名に調停を行っていたため大乱への拡大は避けられ、1月以降の行事は平穏に進められた。しかし、両派は京都への軍勢召集を止めようとせず、5月に勝元が山名派の領国に与党の軍勢を派遣、5月26日に細川派が戦端を開いたことにより大乱が勃発した(上京の戦い)。
戦闘は午前4時から翌日の27日午後6時まで行われたが、両軍共に疲弊して戦線は膠着、28日に義政の停戦命令が出され両軍は戦闘を止めた。明確な勝敗はなかったが東軍は花の御所を押さえたため優位に立ち、西軍は突出していた備中守護細川勝久の屋敷跡を占拠しただけに終わった。6月3日には義政が勝元に将軍家の旗を与え、官軍と認めたことも東軍の有利に繋がり、状況打開のため宗全は周防長門守護大内政弘に出陣を要請、これに応じた大内軍が東進して京都へ向かい戦争は更に拡大していった。
 洛中での大規模な戦闘は,応仁元(1467)年9月から10月に行われた南禅寺(なんぜんじ)附近、東岩倉山(東岩倉の戦い・南禅寺・青蓮院が炎上)や相国寺(相国寺の戦い)、船岡山(ふなおかやま)などの合戦です。その後、一乗寺(いちじょうじ)・山科(やましな)・醍醐(だいご)・木幡(こはた)・嵯峨(さが)・伏見稲荷(ふしみいなり)・西岡(にしのおか)・鳥羽(とば)・下桂(しもかつら)など洛外での戦闘が増加、洛中では足軽による食糧運搬路の切断や放火などのゲリラ活動が繰り返されました。
 文明元(1469)年、戦局が地方に広がり、両軍とも大軍を率いて京都に押し寄せましたが、合戦は膠着状態のまま文明5(1473)年、山名宗全と細川勝元が相次いで死亡しました。その後も戦闘が続けられましたが、文明9(1477)年、畠山義就(はたけやまよしなり)が河内に兵を引き、大内政弘(おおうちまさひろ)も本拠地周防に帰り、他の大名も領国に引き揚げたため、乱が終結しました。
 内乱後、室町幕府は全国的な影響力を失い、全国各地で戦闘が繰り広げられる戦国時代を迎えました。
戦乱下の日常生活
 圧倒的な軍事力を誇った西軍に対し、東軍は、室町御所(花の御所)を中心に「御構」(おんかまえ)という防御陣地を築きました。土塁と堀で囲まれた御構の範囲は、南は一条、北は現在の寺之内通(てらのうちどおり)、西は小川、東は烏丸の各道路で区画された広い範囲に及び、天皇や上皇をはじめ多くの公家、武家、裕福な町人が避難し、仮の住まいとしました。
 御構の外は、西軍がほとんど制圧し、下京との連絡も完全に遮断され、東軍の味方だった比叡山延暦寺のある北からの通路が唯一外部と連絡できるルートとなりました。
 せまい御構の中の生活環境は劣悪で、しばしば疫病や火災が発生し、人々を苦しめました。文明3(1471)年「赤疹」が大流行した御構の中では、疫病の退散を祈願するために歌や踊りが催されたり、疫病の原因である怨霊(おんりょう)を鎮める盛大な御霊会(ごりょうえ)が開かれ、多くの見物人でにぎわいました。
 現在、乱に備えて構築された堀や土塁の跡が、相国寺境内・烏丸一条などで見つかっています。特に、烏丸一条は御構の跡と考えられています。

 
[四角で囲んだ範囲が東軍「御構」のおよその位置。画面左上に●で示したのが西軍の本拠であった山名宗全邸宅跡(石標の位置)。]

    (「都市史14 応仁・文明の乱 – 京都市」より)]

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