中宮寺

マーカーは中宮寺本堂です。

中宮寺
[中宮寺は、現在は法隆寺東院に隣接しているが、創建当初は400メートルほど東にあった。現在地に移転したのは中宮寺が門跡寺院となった16世紀末頃のことと推定される。旧寺地の発掘調査の結果から、法隆寺と同じ頃、7世紀前半の創建と推定されるが、創建の詳しい事情は不明である。天平19年(747年)の『法隆寺縁起』や『上宮聖徳法王帝説』には、「聖徳太子建立七大寺」の一とされるが、確証はない。中宮寺独自の創立縁起は伝わらず、『日本書紀』にも中宮寺創建に関する記載はない。平安時代の『聖徳太子伝暦』は、中宮寺は聖徳太子が母・穴穂部間人皇女(あなほべのはしひとのひめみこ、間人皇后)の宮殿を寺としたと伝え、後には間人皇后自身が発願者であるという伝承も生まれる。鎌倉時代顕真が著した『聖徳太子伝私記』の裏書には、「葦垣宮、岡本宮、鵤宮(いかるがのみや)の3つの宮の中にあった宮なので中宮といい、それを寺にした時に中宮寺と号した」との説が記載されている。中宮寺は平安時代以降衰微し、鎌倉時代には中興の祖とされる信如によって復興が図られた。信如は文永11年(1274年)、法隆寺の蔵から聖徳太子ゆかりの「天寿国繍帳」を再発見したことで知られる。江戸時代初期の慶長7年(1602年)、慈覚院宮を初代門跡に迎え、以後門跡尼寺として今日に至っている(門跡寺院とは、代々皇族貴族などが住持する格式の高い寺のこと)。
写真は法隆寺洞院回廊西側で、中宮寺には左端方向の鐘楼の先を右に回り突き当りが中宮寺山門になります。wikipedia-photo

  
中宮寺山門・wikipedia-photo

   
中宮寺山門内・wikipedia-photo

    
表御殿・wikipedia-photo

本堂wikipedia-photo

●木造菩薩半跏像
本尊。飛鳥時代の作。像高132.0cm(左脚を除く坐高は87.0cm)。広隆寺弥勒菩薩半跏思惟像とよく比較される。寺伝では如意輪観音だが、これは平安時代以降の名称で、当初は弥勒菩薩像として造立されたものと思われる。国宝指定の際の官報告示は単に「木造菩薩半跏像」である。材質はクスノキ材。一木造ではなく、頭部は前後2材、胴体の主要部は1材とし、これに両脚部を含む1材、台座の大部分を形成する1材などを矧ぎ合わせ、他にも小材を各所に挟む。両脚部材と台座部材は矧ぎ目を階段状に造るなど、特異な木寄せを行っている。本像の文献上の初出は建治元年(1275年)、定円の『太子曼荼羅講式』で、同書に「本尊救世観音」とあるのが本像にあたると考えられている。それ以前の伝来は不明である。現状は全身が黒ずんでいるが、足の裏などにわずかに残る痕跡から、当初は彩色され、別製の装身具を付けていたと思われる。
菩薩半迦像 (国宝)・wikipedia-photo

●天寿国繍帳残闕(てんじゅこくしゅうちょう ざんけつ)
染織品は、陶磁器、金属製品などに比べて保存がむずかしい。本品は断片とはいえ、飛鳥時代の染織の遺品としてきわめて貴重なもの。現在、奈良国立博物館に寄託。1982年に製作されたレプリカが現在本堂に安置されている。聖徳太子の母、穴穂部間人皇女と聖徳太子の死去を悼んで王妃橘大女郎が多くの采女らとともに造った刺繍曼荼羅である。もと2帳。その銘は『上宮聖徳法王帝説』にある。詳細は別項「天寿国繍帳」を参照。
天寿国繍帳 (国宝)・wikipedia-photo

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中宮寺境内図(「法隆寺・中宮寺」より)

中宮寺 – Google Map 画像リンク

中宮寺表門内のカメラです。

カメラ南南東方向が中宮寺中門で、西方向が表門です。

カメラ北東方向が表御殿です。

カメラ北方向が本堂です。

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