マーカーは藤ノ木古墳です。
藤ノ木古墳
[藤ノ木古墳(ふじのきこふん)は奈良県生駒郡斑鳩町にある古墳。現在は、地名を古墳名にしているが、かつては「陵山」(みささぎやま)と呼んだらしい。玄室内から大量に出土した土師器、須恵器から古墳時代後期、6世紀第4四半期の円墳であると推定されている。この時期に畿内では前方後円墳の造営が終わりに近づいていた。発掘調査結果から直径48メートル、高さ約9メートルの円墳であるとされている。ただし、現状は周りの水田や建物により少しずつ削り取られていて、高さ約7.6メートル、最大径約40メートルである。大和での埴輪の設置は6世紀前半で終わったと考えられていたが、墳丘裾には円筒埴輪が並べられていて、従来の見解を訂正することになった。未盗掘の横穴式石室で、家形石棺に成人男子2人が合葬されていた。横穴式石室は、現墳丘裾から盛り土を少し取り除いたところに羨道の入り口(羨門)があり、その羨道を少し進むと両袖式の玄室に至る。この玄室は円墳の中心部に設けられている。副葬品が金銅製の馬具や装身具類、刀剣類などからこの当時の支配階級の一人であったと考えられているが、円墳であることから大王クラスではなく、その一族の人物であったと推測されている。
藤ノ木古墳・wikipedia-photo
墳丘・石室入り口・wikipedia-photo
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膳傾子
[膳 傾子(かしわで の かたぶこ、生没年不詳)は、日本古代の6世紀後半の豪族。姓は臣。名前は賀拕夫(かたぶ)ともいう。
『日本書紀』巻第十九によると、欽明天皇31年4月(推定570年)、高句麗の使者が越国に初めて漂着した際に、饗応のために派遣された。この時、高句麗の大使(おおつかい)は膳臣が「皇華(みやこ)」の使であることを知り、越の国の地方豪族である「道君」を詰問し、「お前は膳臣を拝んだので、役人ではないとわかった。私を騙して取り立てた調を速やかに返還せよ」と言った。これを聞いた傾子は、その調を捜し出して大使に返還させ、京へもどり復命した、とある。
『書紀』巻第二十一によると、その後、用明天皇2年(推定587年)、天皇の崩御ののち、丁未の乱では蘇我馬子の側につき、大連物部守屋の軍と戦った。乱後、蘇我氏の血をひく皇族と接近し、娘の膳部菩岐々美郎女は聖徳太子の妃となり、その妹の比里古郎女(ひろこのいらつめ)は太子の弟、来目皇子の妃となった。
膳氏はのちに高橋氏と改氏するが、奈良市杏町(からももちょう)高橋は太子が宮を建てた斑鳩方面へ向かう要地、石上衢(いそのかみのちまた、現在の天理市櫟本町(いちのもとちょう)付近)に近く、太子の斑鳩遷宮を膳氏による誘致とする有力な根拠となっている。
奈良県生駒郡斑鳩町の藤ノ木古墳の被葬者は膳傾子だという説もある。 (wikipedia・膳傾子より)]
「大和名所図会. 巻之1-6 / 秋里舜福 [著] ; 竹原信繁 画」・「芹摘妃膳部菩岐々美郎女」(3-53)
「国指定史跡 藤ノ木古墳 – Google Map 画像リンク」
カメラ西方向が藤ノ木古墳です。