向原の家・豊浦宮・豊浦寺跡(向原寺)

マーカーは向原寺です。

向原寺
[向原寺(こうげんじ)は、奈良県高市郡明日香村にある浄土真宗本願寺派の寺院。別名広厳寺。本尊阿弥陀如来。境内地は百済から日本へ献上された仏像を蘇我稲目が祀った「向原(むくはら)の家」の故地とされ、7世紀には推古天皇(593年 – 628年)の豊浦宮や日本最古の尼寺である豊浦寺が営まれた。
現在の向原寺周辺には豊浦寺の遺構が残っており、1957年以降発掘調査が実施されて、塔、金堂、講堂の跡が検出されているが、寺跡には民家等が建て込んでおり、伽藍の全容の解明は今後の課題である。1985年の発掘調査では、現向原寺境内から豊浦寺講堂跡と推定される版築基壇が検出され、この基壇の下層には石敷と掘立柱建物の跡が確認され、豊浦宮の跡に豊浦寺が建立されたとする『元興寺縁起』の説が裏付けられた。出土瓦の編年から、豊浦寺講堂は7世紀第2四半期の建立と推定され、その下層の掘立柱建物はそれ以前の建立となる。講堂の平面規模は30×15メートル以上とみられる。向原寺のすぐ南、集会所のあたりにも建物跡があり、これが金堂跡と推定される。1993年の調査では乱石積の基壇とこれに伴う石敷が検出され、堂の平面規模は17×14メートルである。金堂跡のさらに南の小字「コンドウ」では1957年の調査で塔跡とみられる14メートル四方の基壇と礎石が検出されている。ただし、塔跡の基壇は前述の金堂跡・講堂跡の基壇とは方位がずれており、伽藍全体がどのような構成であったかは未解明である。
寺宝
●金銅観音菩薩立像:明和9年(1772年)近くの難波池で頭部が発見され、体部と光背が補作される。昭和49年(1974年)盗難される。平成22年(2010年)、オークションに出品されていたところを見つけ寺が買い戻した。
向原寺・wikipedia-photo

本堂・wikipedia-photo

基壇跡・wikipedia-photo

豊浦寺跡石碑・wikipedia-photo

  (wikipedia・向原寺より)]

向原の家
[欽明天皇13年(552年)、百済聖王(聖明王)の使者が仏像と経論数巻を献じ、上表して仏教の功徳をたたえた(仏教公伝)。天皇は仏像を礼拝の可否を群臣に求めた。稲目は「西蕃諸国々はみなこれを礼拝しており、日本だけがこれに背くことができましょうか」(「西蕃諸國一皆禮之 豐秋日本豈獨背也」)と答えた。これに対して大連物部尾輿中臣鎌子は「わが国の王は天地百八十神を祭っています。蕃神を礼拝すれば国神の怒りをまねくでしょう」(「我國家之王天下者 恆以天地社稷百八十神 春夏秋冬 祭拜為事 方今改拜蕃神 恐致國神之怒」)と反対した。天皇は稲目に仏像を授けて試みに礼拝することを許した。稲目は小墾田に仏像を安置して礼拝した。その後、疫病が起こり、民に死する者が多く出た。尾輿と鎌子は蕃神礼拝のためだとして、仏像の廃棄を奏上し、天皇はこれを許した。仏像は難波の堀江に流され、伽藍には火をかけられた。すると、風もないのに大殿が炎上してしまった。しかし、これで仏教が完全に排除されたわけではなく、翌欽明天皇14年(553年)には海中から樟木を引き上げて、天皇は仏像2体を造らせている。  (wikipedia・蘇我稲目より)]

[用明天皇が用明2年4月乙巳朔癸丑(4月9日)(587年5月21日)に崩御した後、穴穂部皇子を推す物部守屋と泊瀬部皇子を支持する蘇我馬子が戦い、蘇我氏の勝利に終わった。そこで皇太后(額田部皇女・推古天皇)がを下して泊瀬部皇子(崇峻天皇)に即位を命じたという。しかし、5年後の祟峻5年11月癸卯朔乙巳(旧暦11月3日)(592年12月12日)には崇峻天皇が馬子の指図によって暗殺されてしまい、翌月である12月壬申朔己卯(旧暦12月8日)に、先々代(敏達天皇・572年 – 585年)の皇后であった額田部皇女が、馬子に請われて、豊浦宮において即位した。  (wikipedia・推古天皇より)]

「日本書紀によると603年(推古11年)、豊浦宮(とゆらのみや)で即位した推古女帝は新宮として小墾田宮を造営しここに居を移したという。  (wikipedia・小墾田宮より)]

向原寺 Google Map 画像リンク」、「推古天皇豊浦宮跡 – Google Map 画像リンク

カメラ西方向が向原寺山門です。

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