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平澤商事(元金久保 麻店)
[栃木の特産物であった麻や干瓢、また、米も栃木町に集められた。栃木町からは肥料、塩等をはじめ、江戸から送られてくる諸商品、銚子方面から入ってくる塩ものや、干ものの魚に至るまで供給されることになるため、栃木町には肥料商をはじめ様々な商人が発生した。
旧日光例幣使街道沿いには現在も4軒の肥料商があり、肥料等の販売を行っている。
繁忙期になると、肥料袋や農薬袋が高く積み上げられ、それらは栃木市内及び周辺市町の農家等に配達される。
また、栃木町の大家には専属の 頭(大工・鳶)がいた。頭は出入りの家を旦那場と呼び、祝儀・不祝儀にはその家の屋号を白く染め抜いた半纏を着て辻々に立っての案内、諸雑事に働き、正月の松飾り、井戸ざらい、小修理をはじめあらゆる力仕事や下仕事を引き受けていた。現在も、肥料商のいくつかは、頭の出入りが行われている。
「平澤商事」は旧日光例幣使街道の東側にあり、通りに面して間の広い見世蔵が建ち、その奥に木造二階建の住居が接続し、敷地の奥には2棟の土蔵が並んでいる。平澤家は、すでに江戸末期の頃、近龍寺の近くで 袋物屋を営んでいたといわれる。現在地に移ったのは明治初期で、四代前の浅次郎が白澤肥料店の番頭から独立し、この地にあった金久保麻店を買収して新たに肥料店を開いたものである。代々肥料商を受け継ぎ現在に至っているが、明治 40 年(1907)発行の『栃木県営業便覧』には「海陸産肥料食塩石油 平澤浅次郎」と記されており、当時は幅広い商品を扱っていたことが知られる。
見世蔵の平屋部分の南側1間を除く南よりの2間は、奥に続く通路として開放されており、御影石が敷き詰められ、かつては肥料を積んだ馬車が直接出入りしたといわれる。主屋東側の土蔵は明治6年(1873)建築、その奥の土蔵は、大正8年(1919)の建築であることが、いずれも小屋組の墨書によって確認できる。見世蔵と土蔵2棟は伝統的建造物に特定されている。
現在も、肥料等の販売を行っており、繁忙期になると、肥料袋や農薬袋が高く積み上げられ、それらは栃木市内及び周辺市町の農家等に配達される。 (「栃木市の維持向上すべき歴史的風致 第2章 – 栃木市(平澤商事p-81)」より)]
「岩崎肥料店 – Google Map 画像リンク」「平沢商事(株) – Google Map 画像リンク」
カメラ東北東方向が平澤商事(元金久保 麻店)です。