マーカーは桜井の札ノ辻跡です。
桜井の札ノ辻跡、魚市場跡
[江戸時代の桜井村は初め旗本領、元和 2 年(1616)から幕府領、同 5 年(1619)からは伊勢藤堂藩領になった。
文禄検地帳によると、はじめ伊勢街道と多武峰街道が交差する付近に人家があり、ここが市場の所在地で、後にここが宿場町の中心となり、高札場でもあった。その後伊勢街道添えに東西に人家が増え町が発展していった。津藩の記録では、万治~寛文年間(1658~73)には、町方として藩の保護が加えられた。
江戸中期になると、北方の三輪村に通じる道が開かれ町並みも北方へ延び、津藩領の桜井で28 匹、丹波市(天理市)で 10 匹と常備馬と宿屋が定められて桜井宿は繁栄していった。寛永年間(1624~44)には西口焼けと称し、桜井の西口、融通念仏宗来迎寺付近に大火があった。また、寛文 2 年(1662)には 235 軒が火災で焼失していることから大きな町であったことが窺える。
明治初期までは、月に 6 度の魚市場・青物市が立ち、多くの商家・宿屋があった。後に本格的な材木の町となるまでは桜井の看板は三輪そうめんと魚市場であった。 (「櫻井魚市場跡から飛鳥資料館をゆく」より)]
[旧桜井町の本町通りと立小路町とのT字路あたりは魚市場のあったところで、かつては藤堂藩の宿場として栄え、市場としては古いものの一つである。吉野から多武峰をへてかついできた熊野鯖は名物のひとつであった。
市場跡に碑が建立されている。有名な「日本橋の魚河岸」開設に当たり、桜井の人、大和屋助五郎が大いに貢献したということです。(東京史稿から) (「魚市場跡(うおいちばあと)/桜井市ホームページ」より)]
カメラ位置は桜井の札ノ辻跡で、カメラ北東方向・郵便ポストと電柱の間に大正9年設置の櫻井町道路元標があります。
カメラ東南東方向に旧桜井魚市場跡碑があります。