玄賓庵

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玄賓庵
[玄賓庵(げんぴんあん)は奈良県桜井市茅原にあり、三輪山麓に建つ真言宗醍醐派の寺院である。
桓武嵯峨天皇に厚い信任を得ながら、俗事を嫌い三輪山の麓に隠棲したという玄賓(げんぴん)僧都の庵と伝えられる。世阿弥の作と伝える謡曲「三輪」の舞台として知られる。かつては山岳仏教の寺として三輪山の檜原谷にあったが、明治初年の神仏分離により現在地に移された。  (wikipedia・玄賓庵より)]

[石畳の道と白塀が印象的な玄賓庵は、山の辺の道沿いにあります。平安時代の高僧・玄賓僧都(げんぴんそうず)が修業した場所といわれ元々、三輪山の檜原谷にあり、明治初年の廃仏毀釈で現在の地に遷されたといいます。
玄賓は河内弓削氏の出身で、桓武・嵯峨天皇に厚い信任を得ながら、俗事を嫌って三輪山の麓で、俗世間を逃れて静かに暮らしました。世の交わりを断ったのは、一族から弓削道鏡のごとき暴悪なものが出たことを恥じ、修業に専念したという上田秋成の説もあります。今は真言宗の寺院として、静かに山の辺の道を行き来するハイカーを見守っています。
また玄賓庵は、世阿弥作と伝える謡曲「三輪」の舞台としても知られます。そのあらすじは、三輪山の庵に住む玄賓の許へ、日々花とお供えの水を持って通ってくる里の女が、ある日、玄賓に衣を一枚与えてくれるよう請います。乞われるままに衣を貸し与え、女の所在について尋ねると、「我が庵は三輪の山本、恋しくは訪い来ませ杉立る門」と言い残して姿を消します。
不審に思った玄賓は、後を追い三輪明神<(大神神社)/a>の近くまで来ると、2本の杉に、先程女に与えた衣が掛かっており、その裾に一首の歌が書いてあり読んでいると、杉の木陰から声がして、女姿の三輪明神が現れます。なんと女人は三輪明神の化身だったのです。神も人も同じように迷いがあり、玄賓僧都に接して仏道に縁を結ぶことができたと語り、その後、神話を語り、舞納め、夜明けと共に消え行くというストーリーです。この時に衣をかけたという杉が、大神神社の境内に残されています。  (「玄賓庵(桜井市 茅原) – 一般社団法人 桜井市観光協会公式ホームページ」より)]

大和名所図会. 巻之1-6 / 秋里舜福 [著] ; 竹原信繁 画」・「玄賓庵」(4-26)、

[奈良時代~平安時代初期の僧玄賓(げんぴん)が隠棲した庵。玄賓は河内の出身で、興福寺の宣教に法相宗を学びました。
山陰山陽地方を渡り歩いた後、桓武天皇の病気平癒を祈願したことから、大僧都に選任されましたが、玄賓はこれを固辞しました。さらに、嵯峨天皇の信頼を得て、嵯峨天皇の兄である平城上皇の病気平癒も祈願。今度は平城上皇から大僧正を任じられましたが、これも辞退しました。天皇・上皇からの任命を断るのは、よほどの覚悟と信念がなくてはできません。その信念はどのようなものだったのでしょうか。『大和名所図会』の本文には、玄賓は「ここに隠れて、白雲を枕にし、風は月と共に清うして、世の塵埃に染まることをさけ」、「山階寺のやんごとなく智者なりけれど、世を厭ふ心ふかくして、さらに寺院のまじはりを好まず」とあります。“厭世観を持ち、人や社会との交流を避ける孤高の人”であったようです。そして、玄賓は世のわずらわしさを避けるように、三輪川のほとりに小さな庵を建てて住みました。そこは「山空(むなし)うて常に松子落ち、谷幽(かすか)にして人跡稀なり」(大和名所図会本文)という静寂に包まれた山中です。挿図には、「三輪川の清き流れにすすぎてし衣の袖を又は汚さじ(発心集)」の歌が記され、玄賓は花に親しみ、庵前にはせせらぎが聞こえる清流。三輪の里の人々も描かれています。大僧正になることを断ってでも隠棲を選んだ玄賓と三輪の人々にどのような交流があったのか、気になります。よく見ると、庵の草葺きの屋根にはツギハギのような跡が。それでいて、絵の玄賓には悲壮感がありません。現代人も陥りがちな経済力や権力、物質的な豊かさよりも、自らの信念に従って心豊かに満ち足りた等身大の暮らし。1200余年前の僧の生き様がしのばれます。  (「『大和名所図会』今昔めぐり ⑳玄賓庵 – 奈良ぶら」より)]

玄賓庵山門前のカメラです。

玄賓庵山門内のカメラです。

玄賓庵本堂前のカメラです。

カメラ位置は玄賓庵側を通る山辺の道です。