磯城嶋金刺宮跡碑

マーカーは磯城嶋金刺宮跡碑です。

磯城嶋金刺宮跡碑
[第29代の欽明天皇(509~571年)は継体天皇の皇子で安閑天皇宣化天皇の異母弟です。
古書によれば、初瀬川と粟原川にはさまれたこの地域は、シキまたはシキシマなどとよばれ、この地で欽明天皇の宮が営まれたと言われています。シキシマのシマは宮廷領の一区域を示す意味を持つということから、シキシマは日本(大和)の国を指す言葉で、日本の国をシキシマと呼んでいたという説もあり興味をそそられます。日本書紀によると西暦552年に、 百済聖明王から金銅の釈迦経論などが欽明天皇に届けられ、これが日本への仏教公伝の第一歩となったことで知られています。公園内にある桜井市教育委員会の説明板には
欽明天皇の磯城嶋金刺宮(推定地)
 初瀬川と栗原川に挟まれた地域は、かつて磯城嶋と呼ばれ、古くは室町時代法隆寺
訓海が著した「太子伝玉林抄」、元文元年(一七六三)の並河永らによる「大和志」、大正三年の 大神神社宮司斎藤美澄による「大和志料」により、この地域に金刺宮があったものと推定されている。「太子伝玉林抄」によると、室町時代には金刺宮の内裏跡は、現在地より東北約百メートルにある字垣ノ内一帯にあったとの伝承が、既に存在していたようだ。
と、あります。
公園内には、他にも「仏教公傳の地」、柿本人麻呂の万葉歌碑、保田與重郎揮毫の「磯城嶋金刺宮址」の石碑が建立されています。  (「磯城嶋金刺宮跡 – 一般社団法人 桜井市観光協会公式ホームページ」より)]

大和名所図会. 巻之1-6 / 秋里舜福 [著] ; 竹原信繁 画」・「十市里大和川.JPG」(4-50)

[大和川桜井市の北東部に発し、佐保川飛鳥川竜田川富雄川などを集めながら、生駒葛城山地を抜け、大阪平野を西へ流れ、大阪湾に注ぎます。総延長68㎞の一級河川です。図会本文には「城上郡(現在の天理市南部、桜井市、宇陀市北部を含む一帯)より流れて、倭恩智社の西南を経て大和川といふ。末は廣瀬郡に入りて廣瀬川といふ。」と紹介されています。絵には大和川を小高い場所から眺める貴族らしき2人。遠い向こう岸に土手はなく、河川敷に草ぶき屋根の家々が寄り集まっています。舟は描かれていませんが、漁などをして生計を立てていたのかもしれません。しかし、ひとたび大雨が降れば、川幅が広がり、激流にのまれてしまう危うさを心配してしまいます。絵中の歌は「逢ふ事のとをちの里は大和川おもはぬ中に有りとこそけき」とあり、川の向こう岸が遠いことに掛けられています。絵を見ると、なるほど、向こう岸の漁村にいる人々が米粒のように描かれています。また、本文にはこれとは別に、「大和川櫻みだれて流れ来ぬ初瀬の方にあらし吹くらし」の歌も記されています。  (「『大和名所図会』今昔めぐり 22 十市里 大和川(巻之四)」より)]
駒とめて袖うちはらふかげもなし佐野のわたりの雪の夕暮れ 定家」(4-29)

[「さの」は地名なのですが、紀伊国の佐野の渡り(和歌山県新宮市)・大和国の狭野(奈良県桜井市)などの説があります。  (「【駒とめて袖うちはらふかげもなし佐野のわたりの雪の夕暮れ …」より)]

桜井市慈恩寺佐野【1】ここだけは紹介しておきたい!|奈良県

欽明天皇磯城島金刺宮跡 – Google Map 画像リンク

カメラ東方向樹木左に磯城嶋金刺宮跡碑があります。

磯城嶋金刺宮跡碑(Google Map 画像)