マーカーは犬山藩成瀬家岡崎屋敷跡です。
[成瀬 正肥(なるせ まさみつ)は慶応2年(1866年)1月に長州再征で、後備心得を命じられた尾張藩14代藩主・徳川慶勝が病のため、代わって11月に慶勝の子・義宜と補佐の正肥が上洛した。
明治元年(1868年)1月3日の鳥羽・伏見の戦いでは慶勝に従って上京していた正肥は参内して南門警備を担当し、5日には朝廷の命令で慶勝の代わりに二条城を接収した。24日に朝廷から独立大名として認められ、3月に参与会計事務局権判事に任命され、閏4月には京都を進発して尾張に帰国し、信濃鎮定のために5,700人の尾張兵を率いて塩尻から甲府へ進んで鎮撫にあたった。その後、別働隊を含み、信濃・越後・東京の各地へ分離した部隊について、正肥は塩尻を本営として指揮し、6月8日に尾張に帰国した。明治2年(1869年)2月には版籍奉還を願い出、6月には犬山藩知事を命じられた。
正肥は王政復古の大号令の際に朝廷から正式に藩主として認められた。それまで犬山藩は尾張藩の附家老であり、立場としては陪臣であり、正式に大名としては認められていなかったのである。ただしそれも、明治4年(1871年)の廃藩置県までという短い間であった。 (wikipedia・成瀬正肥より)]
「国際日本文化研究センター – 大成京細見繪圖 : 洛中洛外町々小名(元治元・1864年)」(絵図中央右端、鴨川右黒谷左下の大山ヤシキは犬山藩成瀬家のことだと思います。)
カメラ位置は丸太町通り、左京区岡崎入江町1−1地先で、カメラ位置周辺一帯が犬山藩成瀬家岡崎屋敷跡になると思います。