マーカーは花矢倉展望台です。
花矢倉展望台
[獅子尾坂をのぼりつめたところにある吉野一の展望台。眼下に上千本、中千本、蔵王堂を見下ろせ、金剛・葛城・二上山を遠望できます。源義経の忠臣、佐藤忠信がこのあたりで敵を防いだと伝わります。 (「花矢倉(はなやぐら) | 吉野町公式ホームページ」より)]
[奈良県吉野郡吉野町、上千本から奥千本への途中、花矢倉展望台の脇にあるのが、世尊寺跡。世尊寺は、金峯山寺(きんぷせんじ)の塔頭(たっちゅう)で明治8年、廃仏毀釈の嵐により廃寺となった寺。寺跡に吉野三郎鐘と称される名鐘(国の重要文化財)と、丘の上に人丸塚があり、往時を偲ばせています。
廃寺となった世尊寺の本尊・釈迦如来立像は、金峯山寺の蔵王堂に安置され、本尊の脇侍であった阿難、迦葉尊者像は観音堂に遷されています。
世尊寺跡にはコンクリートの建物に守られた梵鐘が残されていますが、日宋貿易で財を成した平忠盛(たいらのただもり=伊勢平氏で初めて昇殿を許され、白河法皇に北面武士として仕えた武将で、平清盛の父、後の平氏政権の礎となる人物)が保延6年(1140)に寄進、永暦元年(1160年)、寛元3年(1245)に改鋳されたもので、国の重要文化財。
奈良太郎(奈良・東大寺の鐘)、高野二郎(高野山金剛峯寺大塔の鐘)と並び、「吉野三郎」と称される名鐘です。
少し上った丘に人丸塚があり、かつては五輪塔だった一部分と推測できますが、藤原期の仏像が彫られた仏像石で、この石に願をかけると子供に恵まれる、火が止まると伝わっています。
寺が廃寺となった今となっては由来などは定かでありません。
古図などには子安塔、子守大明神などが描かれていることから、古来、安産信仰の地だったと推測されます。 (「世尊寺跡(吉野三郎鐘)・人丸塚 – ニッポン旅マガジン」より)]
春の吉野山(画像中央やや右上の大屋根は金峯山寺蔵王堂)・wikipedia-photo
開花時期の景観。山上から金峯山寺方面・wikipedia-photo

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「大和名所図会. 巻之1-6 / 秋里舜福 [著] ; 竹原信繁 画」・「花矢倉八王子人丸塚」(6-44)
[図会中央上の道路縁の櫓が花矢倉、その上に世尊寺、その左上に人丸塚、その左下に八王子社(鷲尾神社)が描かれています。]
「よし野山去年の枝折の道変へてまだみぬかたの花を尋ねん 西行」(6-33)
花矢倉展望台からのカメラです。