『琉球八景』(りゅうきゅうはっけい)は、葛飾北斎による揃い物錦絵。1832年(天保3年)秋頃版行。全8点。
北斎が旅した先は、京都大阪及び紀州が最も遠くであり、ましてや、薩摩藩の実質統治下ではあるが、対外上は「外国」の琉球王国に渡れるはずがない。では、どうやって本図を描いたのか。
『八景』を見ると、船を通すために部分的にアーチを付ける石橋などは、明清期及び徳川期の名所図の定番である西湖図を思わせ、手本があると推測されていたが、それが、清朝の版本『琉球国志略』(1757年・乾隆22年)だと判明した。後載する「図版一覧」を見れば、墨摺と錦摺の違いはあるものの、図柄は瓜二つである。
撰者の周煌(しゅうこう)は、1756年(乾隆21年)、冊封副使として来琉、約1年間滞在し、地誌や生活ぶりを記録し、『志略』にまとめたのである。この版本は、徳川幕府も有用だと思ったのか、1831年(天保2年)に「官本」として、そのままの内容で版行する。北斎が目にしたのは「官本」の方だろう。
翌32年(同3年)10月から11月にかけて、第二尚氏王統第18代尚育王の襲封謝恩使として、豊見城王子を正使として江戸上りが行われる。横山學によると、徳川期における琉球関連の版本は、重版も含め95点が確認されているが、殆どが謝恩使か、徳川将軍就任を寿ぐ江戸上がり慶賀使の時期と重なっている。その中でも、天保3年版行が23点と、最も多い。その理由として横山は、琉球及び朝鮮通信使が暫く訪れていなかったので、江戸の人々にとって、久々の「祭り」気分になったからだろうと推測する。
以上の点から、『八景』は、官本『志略』版行の翌年であり、謝恩使が江戸に着く直前の、1832年(天保3年)秋頃版行と考えるのが妥当である。 (wikipedia・琉球八景より)
泉崎夜月(拡大画像リンク)
[久茂地川の河口付近で泉崎と久米の間にかかる石橋「泉崎橋」が描かれています。1717年に木橋から石橋に改修されましたが、沖縄戦で破壊されました。「球陽八景」には無い薄雲で一部欠けた月が描き加えられています。 (「主な収蔵品 | うらそえプラス – 浦添市」より) ※以下の絵図説明は同じサイトからになります。
臨海湖声(拡大画像リンク)
[那覇港を守るために海上に伸びた城砦・三重城と、その堤の途中にあった臨海寺が描かれています。球陽八景での原題は「臨海潮声」ですが、琉球八景では”潮”が”湖”になっています。また、左手前には舟も追加されています。]
粂村竹籬(拡大画像リンク)
[現在の那覇市久米にあった中国系住民の集落、久米村が描かれています。久米村の人々は琉球王府の中で、外交文書の作成や通訳、航海指南などに活躍しました。タイトルの竹籬とは竹の垣根のことです。]
龍洞松濤(拡大画像リンク)
[奥武山にかつてあった龍洞寺が描かれています。奥武山は漫湖の入り江にあった島で、松がうっそうと生えていたといわれています。雪景色になっているのは北斎の創作です。]
筍崖夕照(拡大画像リンク)
[那覇湾港奥の入江、波の上の石筍崖とその上にある波上宮が描かています。現在は埋め立てで陸地化していますが、かつては湿地帯に奥武山やガーナー森、仲島の大石などが水面に映えた景勝地でした。]
長虹秋霽(拡大画像リンク)
[1451年頃に尚金福王の命で造られたといわれる海中道路・長虹堤が描かれています。当時の那覇は浮島と呼ばれる島で、長虹堤は崇元寺橋から那覇のイベガマ御嶽にいたる長い石橋でしたが、次第に周辺が干潟化し、北斎の時代には陸地になっていました。]
城嶽靈泉(拡大画像リンク)
[現在の那覇高校南にある城岳の「王樋川」と呼ばれる泉が描かれています。城岳はかつては木が生い茂った御嶽で、航海安全を祈願する所でもありました。赤く着色された山は、富士山に見立てていると言われています。]
中島蕉園(拡大画像リンク)
[泉崎の仲島にあった蕉園で、蕉とはバナナと同種の芭蕉という植物のことです。手前に描かれている岩は仲島の大石と呼ばれ、現在も残っていて見るができます。また、中央奥には富士山を思わせる山が描かれています。]