葛飾北斎-『雪月花』

葛飾北斎-『雪月花』シリーズはメトロポリタン美術館からダウンロードしています。

雪月花・隅田(拡大画像リンク)

[雪月花を描いたシリーズの1図で、雪に覆われた隅田川沿いの景色を描いています。画面の下半分を隅田川の水面が占め、画面中央の木立の中に木母寺墨田区堤通二丁目)が描かれています。背後には冬枯れの田圃が広がっています。手前右に張りだして描かれている祠ほこらは隅田川神社(墨田区堤通二丁目)です。川面には舟で漁をする人も描かれていますが、網を下し、じっと魚がかかるのを待っているようです。雪の日の静寂を感じさせます。  (「雪月花 隅田 – すみだ北斎美術館」より)]
[1843-44年(天保4-5年)に版行された『雪月花』「隅田」は、琉球八景の「龍洞松濤(りゅうどうしょうとう)」の焼き直しに見える。  (wikipedia・琉球八景より)]

龍洞松濤(りゅうどうしょうとう)(wikipedia-photo)

雪月花・淀川(拡大画像リンク)

[画は淀城からの鳥瞰絵になり、淀城左に淀川瀬水車が描かれています。江戸時代には淀川(宇治川)は淀城の北側を流れていました。淀川右岸に太閤堤の淀堤が描かれています。]
[かつて桂川・宇治川・木津川の三川が合流していた水運の港「淀津」は、平安時代から京都への交通・物流の拠点となりました。三川合流地点の中島には12世紀頃から魚市が存在し、瀬戸内海からの海産物や米、塩、木材などの荷揚げ港となって発展しました。16世紀末まで、琵琶湖から流れる宇治川は巨椋池(おぐらいけ)へ流入し、遊水池となっていましたが、豊臣秀吉伏見城築城に伴い、「太閤堤」をはじめとする大規模な治水工事が行われました。これによって宇治川と巨椋池が分離し、伏見港大坂を結ぶ新たな水路が確保され、三川合流地域の地形も大きく変わりました。江戸時代には三川合流地点の中島に淀城が築かれ、川の流れを城内の堀割に取り込み、周辺には城下町が形成されました。  (「36 淀 – 京都市埋蔵文化財研究所」より)]

淀城図(「水に浮かぶ名城「淀城」と「淀古城」へ:~地形と古地図で …」より)

雪月花・吉野(拡大画像リンク)

[吉野山の桜の起源は今から約1300年前にさかのぼります。その当時は、山々には神が宿るとされ、吉野は神仙の住む理想郷として認識されていました。のちに修験道の開祖と呼ばれる役小角(役行者)は、山上ヶ岳に深く分け入り、一千日の難行苦行の果てに憤怒の形相もおそろしい蔵王権現を感得し、その尊像こそ濁世の民衆を救うものだとして桜の木に刻み、これを山上ヶ岳と吉野山に祀ったとされています。その後、役行者の神秘的な伝承と修験道が盛行するにつれて、本尊を刻んだ「桜」こそ「御神木」としてふさわしいとされ、またそれと同時に蔵王権現を本尊とする金峯山寺への参詣もさかんになり、御神木の献木という行為によって植え続けられました。また、吉野にはその桜に惹かれて、多くの文人墨客が訪れています。古くは西行法師が吉野に庵を結び、多くの歌を残しました。その西行法師に憧れ、吉野に2度杖をひいたのが松尾芭蕉です。また、国学者本居宣長は、なき父母がなかなか子宝に恵まれず、吉野の子守の神(吉野水分神社)に 熱心にお参りをしたご加護で自分が生まれたと信じており、そのお礼参りのため、世に聞く吉野の桜見 物をかねて春の吉野に訪れました。その様子は「菅笠日記」に納められています。 この頃から一般庶民の吉野への旅が盛んになり、春の吉野山は今と変わりない賑わいを呈するようになりました。  (「吉野山と桜 | 吉野町公式ホームページ」より)]

開花時期の景観。山上から金峯山寺方面(wikipedia-photo)