葛飾北斎-千絵の海

『千絵の海(ちえのうみ)』は各地の漁を画題とした中判錦絵の10図揃物。変幻する水の表情と漁撈にたずさわる人が織りなす景趣が描かれている。1833年(天保4年)頃、前北斎為一筆。
「絹川はちふせ」 「総州銚子」「宮戸川長縄」 「待チ網」 「総州利根川」 「甲州火振」 「相州浦賀」 「五島鯨突」「下総登戸」 「蚊針流」。
版行されなかった版下絵2図と、版行された絵より複雑で詳細な墨書きがなされた初稿と考えられる版下絵が3図伝わることから、本来浮世絵で通例の全12図の版行予定だったと想像される。  (wikipedia・葛飾北斎#千絵の海より)

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甲州火振(wikipedia-photo)

[『千繪の海』シリーズの一作。夏の夜に松明の火で山女魚を誘って捕らえる「火振漁」を描いた図。甲州街道沿いの桂川周辺(上野原市大月市)の風景か。火振漁は甲斐国のみならず各地で行われており、甲斐では桂川(相模川水系)や早川(富士川水系)において行われていた記録がある。1832-34年(天保3-5年)頃作。  (wikipedia・葛飾北斎と甲斐国より)]
[この絵は夏の夜に松明の火で鮎や山女魚を誘って捕らえる火振漁を描いた絵である。まず、絵から考えられることとして以下の点に着目した。川が急なカーブとなっていること、火振漁がおこなわれるのは8月から9月であること、また火振漁がおこなわれる時間帯は19時から21時であること、参考資料から江戸時代には甲州では桂川と早川で火振漁が行われていたという記述がある。仮定によって求められた条件をもとに、桂川、早川についてこの絵が描かれた可能性がある地点を探した。その結果桂川の可能性が高いと考えられる。  (「天文学的側面から見る絵画の正確性」より)]

五島鯨突(wikipedia-photo)

[日本では、古くは弥生時代から捕鯨を行っていたとされていますが、鯨組や突組と呼ばれる専業化した集団による捕鯨産業が出現したのは、戦国時代の終わりごろでした。元亀年間(1570~73)に三河湾の内海のものが、師崎付近を漁場として、7~8艘の船で、銛による突取を行ったのが日本捕鯨業のはじめとする説が有力です。この漁法で捕獲したのは動きが鈍く潜るのも浅いうえに死んでも浮いているなどの特徴を持つ背美鯨で、背美鯨より速く、深く潜る座頭鯨長須鯨などは捕ることができませんでした。
平戸五島を含む九州北西部の海域、西海漁場へ突取捕鯨法が伝わったのは元和2年(1616)に紀州の突組が進出したのが始まりと考えられています。(『くじら取りの系譜』)
いっぽうで、五島においてはそれよりも古い慶長2年(1597)有川村江口甚右衛門が紀州湯浅の庄助から突取捕鯨法を伝授されて有川湾で行ったことにはじまるとされて、その後もおもに紀州系の人物によって次々と鯨組がつくられていきました。その後、五島列島北部の有川・魚目・宇久がすぐれた漁場となって、慶長10年ころには捕鯨組が10組にもなり、年間80頭を捕獲したと伝えられています。
最盛期に入った寛文年間(1661~72)には、有川側に10組、富江領の魚目側に7組もの鯨組が組織されて、鯨のみならず、イルカ・ブリ・マグロ・ヒウオ・カツオ・イワシも漁していました。(以上『物語藩史』)  (「鯨の島【維新の殿様・五島(福江)藩五島家編㉘】 – トコトコ …」より)]

相州浦賀(wikipedia-photo)

[現在の横須賀一帯の海岸付近を描いたもの。波一つない静かな内海を描いた構図に、ちょうど魚を釣り上げた釣り人の姿が、リズミカルな動きを与えています。 (「相州浦賀|葛飾北斎|浮世絵のアダチ版画」より)]
浦賀港の南側入り口にある燈明崎と燈明堂。

[慶安元年(1648年)、江戸幕府浦賀港入り口の岬に和式灯台である燈明堂を建設した。燈明堂は篝火ではなく堂内で油を燃やすことによって明かりを得ており、堂内には夜間は燈台守が常駐していた。当時は夜間に明かりがほとんどなかったこともあって、燈明堂の明かりは対岸の房総半島からも確認できたと言われている。建設当初は江戸幕府が燈明堂の修復費用を負担し、当時の東浦賀村と浦賀港の干鰯問屋が灯火の費用を負担していたが、元禄5年(1692年)以降は浦賀港の干鰯問屋が修復費用も捻出するようになった。
海に突き出た岬上にある燈明堂は、台風などの暴風や大地震による津波によって建物や石垣が崩されることがあった。しかし東京湾を通行する船の安全を守る役割を果たしていた燈明堂は、建物が破損してもただちに仮設の燈明堂を建設し、明かりが絶えないように努力がなされた。
明治2年(1869年)、日本初の洋式灯台である観音埼灯台が建設されたことによって、燈明堂はその使命を終え、明治5年(1872年)に廃止となった。廃止後も明治27年(1894年)ないし明治28年(1895年)頃まで燈明堂の建物は残っていたが、その後崩壊して石垣のみが残されていた。
文献調査と発掘調査を踏まえ、昭和63年(1988年)に横須賀市は燈明堂の復元に取り掛かり、平成元年(1989年)3月に復元工事は完成し、復元された燈明堂とその周辺は現在は公園として整備されている。  (wikipedia・燈明堂_(横須賀市)より)]

総州銚子(wikipedia-photo)

[この作品は、船の難所として知られる銚子の海に出た漁船を描いたもので、空を描かず画面いっぱいに波のようすが描かれており、波に翻弄されながらも必死に漁をしている2艘の船は、リアリティと自然の脅威を見る者に印象付けます。波は荒削りな線で描かれているのに対し、波頭や岩にはまるで点描のような細やかな表現が用いられており、それぞれがあいまって独特の世界観を作り出しています。  (「千絵の海|美術作品解説 – thisismedia」より)]
犬吠埼灯台

総州利根川(拡大画像リンク)

[四手網(よつであみ)は、四角形の袋状の網の上に、餌で魚などをおびき寄せ、網の上に集めて引き上げる漁具である。敷き網の一種である。もっとも、タモ網のように、そのまま水中に突っ込んですくいあげることもできる。網の底面は正方形で、たいていは小型のものである。蓋のない箱の側面のひとつを取り去った、塵取りのような形状をしている。網の底面は正方形であり、各辺は肩幅より多少広い程度で、縦辺の高さは手のひらほどである。各縦辺には腕の長さくらいの細長い竹片が取り付けられており、それらを弧状に曲げ、十字に交差させてプラスチック製のパイプなどで固定されている。あるいは別の形として、四角い袋状の四隅に細長い竹片または木片を取り付け、それらを弧状に曲げ、十字に交差させて固定されているものもある。水中から引き上げるための紐がつけられている。主に水深の浅い場所で用いられ、石などを錘として沈め、コイ、フナ、ウナギ、エビや雑魚などを捕獲する。  (wikipedia・四手網より)]

絹川はちふせ(wikipedia-photo)

[「はちふせ」とは現在の「やな漁」と同じで江戸時代の漁です、発祥は中国で日本には弥生時代に伝わったようです。鬼怒川は明治時代からの名称で江戸時代は絹川、衣川などの表記があります。  (「葛飾 北斎 千絵の海「絹川はちふせ」 – フォト蔵」より)]
[梁漁(やなりょう)とは、川の中に足場を組み、木や竹ですのこ状の台を作った梁(やな)という構造物を設置し、上流から泳いできた魚がかかるのを待つ漁法である。アイヌ語ではテㇱ (tes) と呼ばれる。
すのこは上流側に傾いて設置され、上流側では水中にあり、川下側では水上にある。川の水はすのこを通って流れるが、上流から泳いできた魚はすのこの上に打ち上げられる(強制陥穽)。  (wikipedia・梁漁より)]

蚊針流(拡大画像リンク)

[「蚊針流(かばりながし)」とは、蚊針(毛鉤)を流してアユやハヤを釣る釣り方で、流し毛鉤釣りとして現在でも行われている。さらに注目すべきは、釣り人が腰に差している三角形のものである。これは、「受ダモ」といって、二本の棒の間に麻で作った網を張り、魚が釣れるとこれに受けるものである。網には武士の正装である裃を使ったという。裃は麻でできているため水切れがよく網には最適であった。つまり武士の釣りでもあった。詳しく絵を見てみると、いずれの釣り人も、竿を突き出すように構え、糸は下流を流れている。蚊頭引きは、毛鉤を逆引きして魚を誘う釣り方で、この絵はその様を表している。手前から三人目の釣り人には魚が掛かって受ダモで取り込んでいる様子が分かる。針には魚が3匹掛かっており、枝針仕掛けであったことが分かる。北斎は、実際に川に行ってこの様子を写生したと思われ、この絵は、江戸時代の釣りの様子を伝える貴重な一枚である。  (「北斎 千絵の海 蚊針流 | 毛鉤思考室 石香書」より)]

待チ網(拡大画像リンク)

[待網(まちあみ) – 魚が流下できるように川に仕掛けを設け、その隙間に棚を設けて、その上から人が網を用いて魚をとる漁法。主な対象種-アユ。主な漁期-夏期~秋期。画像リンク。(「川の漁法 – 国土交通省」より)。画では、川の漁法と違い階段状の落差をつかって網、籠で魚をすくい取っている。多摩川支流秋川に網代橋がある、網代とは定置網の漁場。また、いつも魚群が集まってくる場所で、この橋の西側が網代地区で、後北条氏時代と思われる網代城があり、橋の西袂には地蔵が祀られ古道と思われます。]
五日市町(現あきる野市)・郷土館だより 第3号-秋川アユ物語

宮戸川長縄(拡大画像リンク)

[画の場所は両国橋北東詰め、駒止橋袂から浅草御蔵方向を描いています。]
[今戸川とは、隅田川の浅草付近の流れを指して言った。そのあたりで行われていた長縄の漁を描いたのがこの作品「宮戸川長縄」である。長縄とは延縄(はえなわ)ともいい、長い縄にいくつも子縄を結びつけ、それぞれの子縄に針を結んで魚をひっかけるという漁法である。今でも、海での漁で行われている。
この絵には三艘の漁船が描かれている。一番手前の船には四人もの男たちが乗り込み、なにやら作業をしている様子。釣り上げた魚をさばいているようにも見える。延縄漁をするのに、四人もの男は必要としないので、彼らは船で遊んでいる客なのかもしれない。  (「北斎千絵の海(二):総州利根川、宮戸川長縄 – 日本の美術」より)]

下総登戸(wikipedia-photo)

[『冨嶽三十六景 登戸浦』と同様に登渡神社鳥居前海辺での潮干狩りの様子を描いています。冨嶽三十六景は西・富士山方向、千絵の海は登戸の南方向を描いています。また北斎の画としてボストン美術館からダウンロードした「汐干狩」も登戸の画ではないかと思っています。]
[千葉市の登戸(のぶと)にある登渡(とわたり)神社は、登戸(のぶと)神社とも呼ばれ人々に愛されています。ここは葛飾北斎の「富嶽三十六景」にある「登戸浦(のぶとうら)」のモデルとなった神社としても有名。浮世絵では海に立つ鳥居が描かれ、実際に昔は神社からも海が良く見えたようですが、現在は埋め立てなどの影響から海を見ることはできません。  (「西千葉の総鎮守 別名”登戸神社”「登渡神社」 – 千葉市』より)]