葛飾北斎-百人一首乳母が絵説-1

「百人一首乳母が絵説」は天保6年(1835年)から天保9年(1838年)、北斎卍筆。百人一首の歌意を乳母が判りやすく絵で説くとの企画のもと製作された、北斎最後の大判錦絵揃物。全100点の予定だったが、版元の西村与兵衛が版行途中で没落したため、「猿丸太夫」など27枚で中断(内1枚は校合摺のみ)。また当初の企画に反して、実際の絵ではかえって解釈し難い図も多く含まれており、当時は不評だったことも中断の理由と考えられる。北斎自身はこの企画に強い意欲があったらしく、全100図の版下絵を描いていたと見られる。現在、版行作品と校合摺、版下絵など合計91点確認されており、版下絵は遺存する数の多さや繊細な表現から晩年期における北斎肉筆画の基準作として重要。フリーア美術館大英博物館などに分蔵。  (wikipedia・葛飾北斎#百人一首乳母が絵説より)]

画像は「ボストン美術館」からダウンロードしています。

天智天皇(拡大画像リンク)

『秋(あき)の田(た)の かりほの庵(いほ)の とまをあらみ
わが衣手(ころもで)は 露(つゆ)にぬれつつ』
[秋の田の傍にある仮小屋の屋根を葺いた苫の目が粗いので、私の衣の袖は露に濡れてゆくばかりだ。]
[実際の作者は、天智天皇ではないというのが定説。万葉集詠み人知らずの歌が変遷して御製となったもの。天智天皇と農民の姿を重ね合わせることで、庶民の痛み・苦しみを理解する天皇像を描き出している。大化の改新以降の社会の基盤を構築した偉大な天皇である天智天皇の御製が、百人一首の第一首とされた。  (「天智天皇 – 小倉百人一首 – 学ぶ・教える.COM」より)]

持統天皇(拡大画像リンク)

『春(はる)すぎて 夏(なつ)きにけらし 白妙(しろたへ)の
衣(ころも)干(ほ)すてふ 天(あま)のかぐ山(やま)』
[春が過ぎて夏が来たらしい。夏に純白の衣を干すという天の香具山なのだから。]
[天の香具山 ― 耳成山畝傍山とともに大和三山の一。持統天皇の御世に都があった藤原京の中心から見て東南に位置する。万葉集には大和三山を男女の三角関係に見立てた歌があり、持統天皇の歌の背景には、額田王をめぐって争った天智天皇(持統天皇の父)とその弟、天武天皇(持統天皇の夫)の関係が連想される。  (「小倉百人一首・持統天皇 – 学ぶ・教える.COM」より)]

柿本人麻呂(拡大画像リンク)

『足曳(あしびき)の 山鳥(やまどり)の尾(を)の しだり尾(を)の
長々(ながなが)し夜(よ)を 獨(ひと)りかも寝(ね)む』
[山鳥の尾の垂れ下がった尾が長々と伸びているように、秋の長々しい夜を一人で寝ることになるのだろうか。]

山邊赤人(拡大画像リンク)

『田子(たご)の浦(うら)に うち出(い)でて見(み)れば 白妙(しろたへ)の
富士(ふじ)の高嶺(たかね)に 雪(ゆき)は降(ふ)りつつ』
[田子の浦に出てみると、まっ白な富士の高嶺に今も雪は降り続いていることだ。]
[画は現在の静岡県静岡市清水区の薩埵峠の麓・西倉沢方向から薩埵峠を目指す旅人を描き、中央上に雪化粧の富士山、手前に田子の浦(駿河湾西沿岸)を描き歌を表現している。]

猿丸大夫(拡大画像リンク)

『奥山(おくやま)に 紅葉(もみぢ)踏(ふ)み分(わ)け 鳴(な)く鹿(しか)の
聲(こゑ)きく時(とき)ぞ 秋(あき)はかなしき』
[奥山で紅葉を踏み分けて鳴いている鹿の声を聞く時こそ、秋の悲しさを感じるものだ。]
[山を村落から近く標高が低い順に「サトヤマ」「ウチヤマ」「オクヤマ」「ダケ」と区分されており、近世、特に石炭が燃料として普及する以前の日本列島における里山の負荷は一貫して高く、村落共同体は里山の植生崩壊を防止するために様々な規則を定めて対応した。これらの規則は「村掟」「村定」「村規則」などと呼ばれ、里山を入会地として持つ村のほとんどが、この種の規則を文書として備えていた。村掟によって定められる里山の利用規則は極めて詳細かつ厳密であった。例えば、肥料用の草は刈り取ってもよい量が家ごとに決められていることも珍しくなかったし、刈り取ってもよい時期が厳密に設定されている(「口開け」と呼ばれる)ことが多かった。 (wikipedia・里山より)]
[画では、里山の共同作業を終え、背負いかご、熊手をもって村落に帰る農婦達、村落では農作業を終えた農夫が談笑している。画左奥に「オクヤマ」を越えた「ダケ」に鹿が二頭、その中の一頭が何か不審な気配にいち早く気づき、鳴き声によって群れ全体に迫る危険を知らせている、その鳴き声がふもとまで届き、鳴き声を聞くと物悲しくなる。]

中納言家持(大伴家持)(拡大画像リンク)

『鵲(かささぎ)の 渡(わた)せる橋(はし)に おく霜(しも)の
白(しろ)きを見(み)れば 夜(よ)ぞ更(ふ)けにける』
[「かささぎが天の川にかけたという橋のあたりも白く、宮中の階段にも霜がおりて真っ白になっているのを見ると、夜がずいぶん更けてしまったことがわかるなぁ」という意味。現実の御階(階段)を七夕の天の川の橋になぞらえることで、夢と現を同時に表現したところがこの歌の妙味です。  (「絵あわせ百人一首「かささぎの…」 | にほんごであそぼ – NHK」より)]
[画では現実の御階(階段)を岩山になぞらえ、家々の屋根を白く描き霜が降りているさまを描き、手前に唐舟を描いて宮中を表していると思います。]

安倍仲麻呂(拡大画像リンク)

[本図は、安倍仲麻呂(*1)が異国の地・唐で月をみたときに、故郷を想い詠んだ歌「天の原ふりさけ見れば春日なる三笠の山に出でし月かも」を絵解きしています。
仲麻呂(画像中央)は高台に登って遠く月を眺めていますが、月は水面に映る影のみで表現され、故郷を懐かしむ仲麻呂の心情がうかがえます。
*1 安倍仲麻呂:奈良時代の遣唐留学生で、の皇帝玄宗に仕えた人物。海難に遭い日本へ帰国できず、唐の地で没しました。  (「新収蔵品展 – すみだ北斎美術館」より)]

小野小町(拡大画像リンク)

『花(はな)の色(いろ)は 移(うつ)りにけりな いたづらに
わが身(み)世(よ)にふる ながめせしまに』
[桜の花はむなしく色あせてしまった。長雨が降っていた間に。(私の容姿はむなしく衰えてしまった。日々の暮らしの中で、もの思いしていた間に。)]
[季節は桜の季節、桜の木の前に老婆、その周辺に元気はつらつに働く人々を描いて、年代差を描き、時の移り変わりを表現していると思います。]

参議篁(小野篁)(拡大画像リンク)

『わたのはら 八十島(やそしま)かけて こぎ出(い)でぬと
人(ひと)には告(つ)げよ あまの釣船(つりぶね)』
[大海原のたくさんの島々を目指して漕ぎ出してしまったと都にいる人に伝えてくれ。漁師の釣舟よ。
この歌は、篁が隠岐に流された時に詠んだもので、高官であった作者が、漁師の釣舟(身分は低くとも自由にどこへでも行ける漁師)に懇願しなければならない苦悩を表している。  (「小倉百人一首・参議篁(小野篁) – 学ぶ・教える.COM」より)]

僧正遍昭(拡大画像リンク)

『天津風(あまつかぜ) 雲(くも)の通路(かよひぢ) ふきとぢよ
をとめの姿(すがた) しばしとどめむ』
[天の風よ。雲間の通り道を閉ざしてくれ。天女の舞い姿をしばらくとどめておきたいのだ。]
[遍昭は、嘉祥3年(850年)正月に従五位上に昇叙されますが、同年3月に寵遇を受けた仁明天皇の崩御により出家することになります。桓武天皇の孫という高貴な生まれである遍昭は、在俗時代の色好みの逸話が多く、在俗時代にかなり未練があったように思われます。]

    「葛飾北斎-百人一首乳母が絵説-2