在原業平朝臣(拡大画像リンク)
『千早(ちはや)振(ぶ)る 神代(かみよ)もきかず 竜田川(たつたがは)
から紅(くれなゐ)に 水(みづ)くくるとは』
[神代にすら聞いたことがない。竜田川が紅葉によって水を真っ赤に染め上げているとは。]
[竜田川やその近くにある三室山は、百人一首にも登場している。とくに下流は紅葉の美しさから、歌枕として古来より多くの和歌に詠まれた。百人一首では二首撰ばれている。中でも在原業平の和歌は有名である。この歌を題材とした「千早振る」という落語もよく知られている。なお、この当時の竜田川は現在の竜田川(平群川)ではなく、大和川本流の三郷町立野から大阪府境までを指しているというのが定説。後の時代に紅葉の名所として観光地にするため、地元が現在の平群川を竜田川と称したため、いつのまにか現在のような状態になったと言われている。 (wikipedia・竜田川)
藤原敏行朝臣(拡大画像リンク)
『住(すみ)の江(え)の 岸(きし)に寄(よ)る波(なみ) よるさへや
夢(ゆめ)の通(かよ)ひ路(ぢ) 人(ひと)めよくらむ』
[住の江の岸には昼夜を問わず波が打ち寄せてくる。夜に見る夢の中でさえ、あなたが私のところに通ってくれないのは、人目を避けているからだろうか。]
[住の江とは大阪市住吉区の一帯(今は住吉区のほかに住之江区もあるが、そのほとんどは埋め立て地である)。昔は住吉神社のすぐ近くまで海があった。『万葉集』には「すみのえ」を「須美乃延」「須美乃江」「墨江」「墨之江」などと表記しているが、「住吉」と表記した二十九例も、「吉」は「エシ」「エ」ともよまれたがゆえに同じく「スミノエ」を真名に表記したものであり、要するに本来は「スミノエ」であったものが「住吉」という字をあてたために「スミヨシ」ともよむようになり、「スミヨシ」という地名をつくってしまったというのが通説である。 (「百人一首の意味と文法解説(18)すみのえの岸による波よるさ .」より)]
五世紀頃の河内潟(拡大図にリンク・「難波津 – 永田屋昆布」より)
伊勢(国会図書館よりダウンロード)(拡大画像リンク)
『難波(なには)がた 短(みじか)き蘆(あし)の ふしの間(ま)も
逢(あ)はで此世(このよ)を すぐしてよとや』
[難波潟に生えている芦の短い節の間のような、ほんの短い時間も逢わないまま、一生を終えてしまえとあなたは言うのでしょうか。]
[【難波江】
大阪市淀川河口付近の海の古称。また特に、難波の堀江。
なには【難波(なにわ)】
摂津国の淀川の河口周辺。今の大阪市のこと。「昔こそ難波ゐなかと言はれけめいま都引き都びにけり」(万葉集・巻三・宇合)とあるが、上町台地を除けば海ともつかず陸ともつかずというような低湿地であって、葦が生い茂り、荒涼としたイメージであったようである。「津の国の難波の葦の目もはるに繁き我が恋人知るらめや」(古今集・恋二・貫之)「津の国の難波の春は夢なれや葦の枯葉に風わたるなり」(新古今集・冬・西行)など「葦」をよんだ歌はきわめて多い。(中略)なお、「難波人(びと)」「難波舟」「難波女(め)」「難波江」「難波潟」「難波津」「難波の海」「難波の浦」「難波の御津(みつ)」「難波堀江」などという形でもよく歌によまれたが、とらえ方は「難波」の場合とおおむね同じと言ってよかろう。 (「百人一首の意味と文法解説(19)難波潟みじかき葦のふしの間 …」より)]
[上図「五世紀頃の河内潟」の新淀川から大川が分岐する左に現在の長柄橋が架かっています。]
元良親王(拡大画像リンク)
『佗(わび)ぬれば 今(いま)はたおなじ なにはなる
みをつくしても あはむとぞ思(おも)ふ』
[思いどおりにいかなくなってしまったのだから、今となっては同じことだ。難波にある航行の目印、澪標(みおつくし)ではないが、身を尽くしても逢おうと思う。]
[澪標-澪標(みおつくし、みをつくし、みおづくし、みおじるし)は川の河口などに港が開かれている場合、土砂の堆積により浅くて舟(船)の航行が不可能な場所が多く座礁の危険性があるため、比較的水深が深く航行可能な場所である澪との境界に並べて設置され、航路を示した。同義語に澪木(みおぎ)・水尾坊木(みおぼうぎ)などがある。古語は「ほんぎ」で、土砂が堆積する三角洲の河口付近に設置され、満潮時には行き交う舟の運行指標となった。
澪標は古くより「水の都(水都)」と謳われていた大阪(難波宮、難波・浪速・大坂)との関連性が強く、その意匠は明治24年(1891年)に大阪市の市章等として採用されている。 (wikipedia・澪標より)]
素性法師(拡大画像リンク)
『今(いま)来(こ)むと いひしばかりに 長月(ながつき)の
有明(ありあけ)の月(つき)を 待(まち)出(い)でつるかな』
[あなたがすぐに来ると言ったばかりに秋の夜長を待っていたら、有明の月が出てしまった。]
[待ちくたびれた状況を老婆の姿、秋の夜長を迎えの松明で表現しているようです、松明の誘う先が鐘楼、鐘をつくことは懺悔、供養を願うとされ、鐘楼で遅参の身の罪を懺悔し新しい門出を願う気持ちを表しているのではないかと想像しています。]
菅家(菅原道真)(拡大画像リンク)
『此(こ)の度(たび)は ぬさも取(とり)あへず 手向山(たむけやま)
紅葉(もみぢ)のにしき 神(かみ)のまにまに』
[今度の旅は、御幣をささげることもできない。とりあえず、手向けに山の紅葉を錦に見立てて御幣の代わりにするので、神の御心のままにお受け取りください。]
[菅原道真は昌泰元年(898年)10月、紅葉の季節に朱雀院(宇多上皇)のお供で手向山八幡宮に参詣しています。その時に詠んだ歌とされています。その後、昌泰4年(901年)1月25日「昌泰の変」によりに道真は大宰員外帥に左遷されることになる。]
貞信公(藤原忠平)(拡大画像リンク)
『小倉山(をぐらやま) 峯(みね)のもみぢ葉(ば) 心(こころ)あらば
今(いま)一度(ひとたび)の みゆきまたなむ』
[小倉山の紅葉よ。お前に心があるなら、いま一度の行幸があるまで散らずに待っていてほしい。]
[「貞信公」(ていしんこう)とは、平安時代中期の公卿「藤原忠平」のこと。藤原忠平は、のちに朱雀天皇の摂政、関白を務めるなど、摂関政治(せっかんせいじ)の基礎を築いた人物です。宇多法王に仕え、大井川の行幸(みゆき:天皇・法王の外出)にお供したときに、宇多法王が「この美しい紅葉を息子の醍醐天皇に見せたい」と言ったのを聞いて詠んだのが、この和歌。
本皇族浮世絵が面白いのは、この話の続きが描かれていること。赤い法衣をまとった徳の高そうな僧侶が深々と頭を下げているのは、若き醍醐天皇。宇多法王の希望が叶い、醍醐天皇は小倉山の紅葉を見ることができたという、たいへん縁起の良い1枚と言えます。 (「百人一首姥がゑとき/百人一首うばが絵解 貞信公 – 刀剣 …」より)]
源宗于朝臣(拡大画像リンク)
『山里(やまざと)は 冬(ふゆ)ぞ寂(さび)しさ まさりける
人(ひと)めも草(くさ)も かれぬと思(おも)へば』
[山里は、冬に一段と寂しくなるものだなあ。人も来なくなり、草も枯れてしまうと思うので。]
[雪積もる冬の山中で、暖をとる猟師たちが描かれています。人家もない寒い山では、焚き火にあたるのはほっとする瞬間であることでしょう、彼らの表情もリラックスしています。手を大きく広げて焚き火にあたる猟師たちのポーズはさまざまです。画面左から2番目の猟師は、足をさすりながらお尻を暖めているようにも見えます。北斎は、人物の身体のかたちや動きを描くことを得意とした絵師です。身体に着目した北斎は、江戸時代に生きながら近代的な視点を持っていたのかもしれません。
焚き火の炎は煙に変わり、たなびく煙が大胆に画面左下から右上に帯状に横切っていく様子が、とても目を引きます。炎と煙は本来はっきりとしたかたちを持たないものですが、北斎はそれらを画面の中心に大きく据えています。高い画力と鋭い造形感覚を持つ北斎ならではの、卓抜な画面構成と斬新なモティーフの扱いといえるでしょう。
源宗于(みなもとのむねゆき)の和歌は「山里は 冬ぞさみしさまさりける 人目も草もかれぬと思へば」というもので、人も訪れず草も枯れ果てた冬の山里の寂しさを詠ったものです。この絵は、『百人一首姥かゑとき』シリーズの中でも、解釈が難しい図のひとつです。北斎はどんな思いをこめて、宗于の歌を表現したのでしょうか。
画面をよく見てみると、右には塀で囲まれた東屋があり、中にはかまどがあって、鍋も吊るされています。薪もありますが、うっすら雪が積もっています。どうやら長い間使われていない東屋のようです。この東屋を通じて、北斎は山里の寂しさを詠った歌意を表現しているのではないでしょうか。 (「百人一首姥かゑとき 源宗于朝臣 – 町田市立国際版画美術館」より)]
春道列樹(拡大画像リンク)
『山川(やまがは)に 風(かぜ)のかけたる 柵(しがらみ)は
流(なが)れもあへぬ 紅葉(もみぢ)なりけり』
[山中を流れる川に風がかけたしがらみは、完全に流れきらずにいる紅葉だったのだなあ。]
[柵(しがらみ)
意味
1-杭を打ち並べ、木の枝や竹などを杭に対して横向きに絡みつけたもの。水の流れをせき止めるための仕掛け。
2-人の心にまとわりついて精神的な束縛となるもの。「恋の―」「浮世の―」 (「「柵」(しがらみ)の意味 – 国語辞典オンライン」より)]
[この画は「百人一首図会 / 田山敬儀 註釈」(出版年・文化4[1807])の「猿丸大夫」(コマ番号・1巻-12)の構図に似ている、「猿丸大夫」画と「春道列樹」(コマ番号・1巻-39)の画を参考に、この画が描かれたように思えます。]
清原深養父(国会図書館よりダウンロード)(拡大画像リンク)
『夏(なつ)の夜(よ)は まだ宵(よひ)ながら 明(あ)けぬるを
雲(くも)のいづこに 月(つき)やどるらむ』
[夏の夜は、まだ宵だと思っているうちに明けてしまったが、雲のどのあたりに月はとどまっているのだろう。]
[この画は隅田川両国橋北東詰めから浅草御蔵方向を描かれていると思います。両国橋近辺は舟遊びのメッカだったようで、画には大型の絢爛豪華な屋形舟の右に調理番に使用される舟、その前にとま舟が描かれている。]