葛飾北斎-百人一首乳母が絵説-3

文屋朝康(拡大画像リンク)

『白露(しらつゆ)に 風(かぜ)の吹(ふ)きしく 秋(あき)の野(の)は
つらぬきとめぬ 玉(たま)ぞ散(ち)りける』
[白露に風がしきりに吹きつける秋の野は、紐で貫き留めていない玉が散っているのだよ。]
[【百人一首解説】
「草葉の上の白露に風が吹きつける秋の野原では、その露が、糸でとめていない真珠が散らばっているようだよ」という意味。寂しい秋の野と対比し、露の美しさをひきたてています。「玉」とは宝石であり、美しさを表す言葉。『源氏物語』で、生まれたばかりの光源氏は「玉の男みこ」と表されました。  (「絵あわせ百人一首「白露に…」 | にほんごであそぼ – NHK」より)]

参議等(源等)(拡大画像リンク)

『浅(あさ)ぢふの をのの篠原(しのはら) しのぶれど
あまりてなどか 人(ひと)の戀(こひ)しき』
[浅茅が生えている小野の篠原の“しの”のように忍んでいるけれども、どうしてあの人のことが、どうしようもなく恋しいのだろう。]
[公家が御供二人を連れて物思いにふけりながら、所領地の浅茅ヶ原のほとりを歩いている。その右には公家のお忍びを聞きつけた村役人があいさつに出向いている、その傍らを里山の共同管理を終えた農夫達が通っていく。]

権中納言敦忠(藤原敦忠)(拡大画像リンク)

『逢(あひ)見(み)ての 後(のち)の心(こころ)に くらぶれば
昔(むかし)は物(もの)を 思(おも)はざりけり』
[あなたを抱いた後の恋しさに比べると、昔の恋の物思いなどは何も思っていなかったのと同じであったなあ。]
[この若が何故丑の刻参りで描かれるのか?]
[丑の刻参り(うしのこくまいり)、丑の時参り(うしのときまいり)とは、丑の刻(午前1時から午前3時ごろ)に神社の御神木に憎い相手に見立てた藁人形を釘で打ち込むという、日本に古来伝わる呪いの一種。典型では、嫉妬心にさいなむ女性が、白衣に扮し、灯したロウソクを突き立てた鉄輪を頭にかぶった姿で行うものである。連夜この詣でをおこない、七日目で満願となって呪う相手が死ぬが、行為を他人に見られると効力が失せると信じられた。丑の刻参りの基本的な方法は、江戸時代に完成している。一般的な描写としては、白装束を身にまとい、髪を振り乱し、顔に白粉を塗り、頭に五徳(鉄輪)をかぶってそこに三本のロウソクを立て、あるいは一本歯の下駄(あるいは高下駄)を履き、胸には鏡をつるし、神社の御神木に憎い相手に見立てた藁人形を毎夜、五寸釘で打ち込むというものが用いられる。五徳は三脚になっているので、これを逆さにかぶり、三本のロウソクを立てるのである。
丑の刻
「丑の刻」も、昼とは同じ場所でありながら「草木も眠る」と形容されるように、その様相の違いから常世へ繋がる時刻と考えられ、平安時代には呪術としての「丑の刻参り」が行われる時間でもあった。また「うしとら」の方角は鬼門をさすが、時刻でいえば「うしとら」は「丑の刻」に該当する。  (wikipedia・丑の刻参りより)]

大中臣能宣朝臣(拡大画像リンク)

『御垣守(みかきもり) 衛士(ゑじ)のたく火(ひ)の 夜(よる)はもえて
晝(ひる)は消(き)えつつ 物(もの)をこそ思(おも)へ』
[皇宮警備の衛士の焚く火が、夜は燃えて昼は消えることをくり返すように、私の恋の炎も夜は燃えて昼は消えることをくり返しながら、物思いにふける日々が果てしなく続くのだ。]

藤原義孝(拡大画像リンク)

『君(きみ)がため 惜(を)しからざりし 命(いのち)さへ
ながくもがなと 思(おも)ひけるかな』
[君のためには惜しくなかった命でさえ、結ばれた今となっては、長くありたいと思うようになったよ。]
[長らえる希望が湧いてきた状況を、物見遊山と言う形で表現していると思われます。
物見遊山とは「日常の生活では見ることのできない風景・風俗・習慣などを見て回る旅行」で、日本でも古代から神社仏閣への参詣が行われていた。社会が安定した江戸時代中期以降、伊勢神宮などに参るついでに、名所巡りや飲食を楽しむ旅が庶民にも広がった。これらは「旅」「行旅」「遊山」などと呼ばれた。寺社や景勝地を紹介した各地の名所図会や、『東海道中膝栗毛』のような旅行文学も刊行され、葛飾北斎も東海道のシリーズの浮世絵版画を7種類手がけています。]

藤原道信朝臣(拡大画像リンク)

『明(あけ)ぬれば 暮(く)るるものとは 知(し)りながら
猶(なほ)恨(うら)めしき 朝(あさ)ぼらけかな』
[夜が明けてしまうと、必ず暮れて、あなたに逢えるとは知ってはいるものの、それでも恨めしい夜明けだなあ。]
[この詩が詠まれた背景
この詩は後拾遺和歌集 第十二巻(恋二 672首目)、小倉百人一首の第五十二首目に収録されています。
題に「女のもとより雪ふり侍りける日かへりてつかはしける」((逢瀬後)雪が降る中、女性宅から帰ったその日に使いを送った)と書かれています。  (「明けぬれば(藤原道信朝臣) – 和歌の世界」より)]
[歌の抑えきれない状況を、躍動する伊勢参りの状景で表現して、物見遊山の推進に貢献しようとする北斎の気持ちが表れているように思います。]

赤染衛門(拡大画像リンク)

『安(やす)らはで 寝(ね)なましものを 小夜(さよ)更(ふ)けて
かたぶくまでの 月(つき)を見(み)しかな』
[いらっしゃらないことがはじめからわかっていたなら、ためらわずに寝てしまったでしょうに。今か今かとお待ちするうちに夜も更けてしまい、西に傾くまでの月を見たことですよ。]
[赤染衛門は文章博士大江匡衡貞元年中(976~978)に結婚する。大江匡衡と赤染衛門はおしどり夫婦として知られており、仲睦ましい夫婦仲より、匡衡衛門と呼ばれたという。大江匡衡との間に大江挙周・江侍従などを設けた。赤染衛門は源雅信邸に出仕し、藤原道長の正妻である源倫子とその娘の藤原彰子に仕えており、紫式部和泉式部清少納言伊勢大輔らとも親交があった。匡衡の尾張赴任にも共に下向し、夫を支えた。また、子の挙周の和泉守への任官に尽力して成功させ、病のときには住吉に和歌を奉納し病平癒に導いた話など、母としての像も鮮やかである。  (wikipedia・赤染衛門より)]

三条院(三条天皇)(拡大画像リンク)

『心(こころ)にも あらでうき世(よ)に 長(なが)らへば
戀(こひ)しかるべき 夜半(よは)の月(つき)かな』
[心ならずも、つらいこの世に生きながらえていたならば、きっと恋しく思い出すにちがいない、この夜更けの月であるなあ。]
[寛弘8年(1011年)危篤状態の一条天皇は崩御数日前に譲位し、36歳の居貞親王(三条天皇)はようやく即位することとなった。翌長和元年(1012年)藤原道長の次女妍子が入内して中宮となるが、三条天皇は東宮時代からの妻である娍子を皇后とし、二后並立状態となる。道長の娘・妍子がいながら娍子を立后したこと、妍子との間には女児しか儲けられなかったことにより、道長と三条天皇の関係は決定的なものとなった。長和3年(1014年)三条天皇は眼病を患う。仙丹の服用直後に視力を失ったといわれる。道長は天皇の眼病を理由に譲位を迫った。更にこの年と翌年、内裏が相次いで焼失。病状の悪化もあり、同5年(1016年)三条天皇は皇后娍子の子敦明親王の立太子を条件に、道長の勧めに従い第二皇子の後一条天皇に譲位し、太上天皇となる。翌寛仁元年(1017年)4月に出家し、程なく42歳で崩御した。この歌は譲位の際に詠んだとされる。  (wikipedia・三条天皇より)]

大納言経信(源経信)(拡大画像リンク)

『夕(ゆふ)されば 門田(かどた)のいなば おとづれて
あしのまろやに 秋風(あきかぜ)ぞふく』
[夕方になると、家の門前の稲の葉に音を立てて、蘆葺きの小屋に秋風が吹いてくることだ。]
[上空には雁の南帰、田道にはそれを見上げる旅人と、あわただしく染め物を運ぶ染師たち、田道沿いの水路(湧き水)から水汲みする農婦二人と、農作業を終え足を洗う農夫が描かれ、田の稲穂は秋風になびいている。]

権中納言匡房(大江匡房)(メトロポリタン美術館よりダウンロード・拡大画像リンク)

『高砂(たかさご)の 尾上(をのへ)の櫻(さくら) 咲(さ)きにけり
外山(とやま)の霞(かすみ) たたずもあらなむ』
[遠くの山の峰の桜が咲いたことだ。人里近い山の霞よ、立たないでほしい。]
[峠の頂の満開の桜、そこで一休みして満開の桜を満喫する旅人、そこに花見におとずれる人々が登ってい来る、桜の名所には名水が、その名水をくみ上げて運ぶ里人が描かれ、遠く麓の里は霞に覆われている。]

権中納言定家(藤原定家)(国立国会図書館よりダウンロード・拡大画像リンク)

『來(こ)ぬ人(ひと)を まつほの浦(うら)の 夕(ゆふ)なぎに
やくや藻塩(もしほ)の 身(み)もこがれつつ』
[いくら待っても来ない人を待ち続けて、松帆の浦の夕凪のころに焼く藻塩が焦げるように、私の身もいつまでも恋こがれています。]
[松帆崎(まつほざき)は兵庫県淡路市岩屋に属し松林が付近一帯を覆い、松帆の浦と呼ばれる。古来からの潮待ち・風待ちの地で、歌枕として和歌にも詠まれている。  (wikipedia・松帆崎より)]
[画は「あげ浜式製塩法」の塩造り作業と思われ、上の二人の女性は海から海水を塩田に運び、手前右で濃縮された海水を鉄釜や石釜に入れ、煮詰めて塩を結晶させている。海水を煮詰めるには大量の薪が必要とし、手前の二人の男が、その薪を運び積み上げている。]
[「あげ浜式製塩法」とは、平安時代の終わりから江戸時代にかけて行われた製塩方法。
当時土木技術が未発達だったため、塩田は海岸より高いところにしか作れなかった。手法としては、塩田の表面に粘土を敷きつめ、その上に砂を撒く。そして海岸で桶に海水を汲んで、塩田まで運び散布し、蒸発を促進させるために再び砂を攪拌(かくはん)してやる。  散布・攪拌を繰り返し、風と太陽の力で砂を乾燥させる。充分塩分が付着した砂を沼井(ぬい)に集め、海水をかけて砂の表面の塩分を洗い落してやると、濃い海水ができあがる。この濃い海水を鉄釜や石釜に入れ、煮詰めて塩を結晶させるという手法である。  (「揚げ浜の塩 歴史・文化」より)]

    「葛飾北斎-百人一首乳母が絵説-2