藪渡し

マーカーは藪渡しです。

藪渡し
[現在の大阪にあった商業都市、に見物のために滞在していた徳川家康のもとに本能寺での変報が届くと、家康は明智光秀勢の攻撃から逃れるために堺を後にします。その時、木津川堤藪(やぶ)の渡し(現在の京都府木津川市山城町鳥居付近)から信楽(しがらき)へ家康の道案内役を務めたのが、初代上林春松の兄である上林久茂(ひさもち)ら宇治の茶師たちでした。家康は久茂らの貢献により、信楽から伊勢を通り、無事に三河に戻ることができました。  (「上林春松本店の章 第四話 上林、茶の天下をとる – 綾鷹」より)]

精華町域の「木津川の渡し」
[木津川に橋が架かっていなかった時代、対岸へ渡るための「渡し(舟)」がありました。
精華町での木津川の渡し(舟)は上流(南部)から順に
『菅井(すがい)の渡し』(上狛~菅井)
『開(ひらき)の渡し』(平尾~祝園)
『藪(やぶ)の渡し』(藪浜(綺田)~舟(下狛))
の三か所があったと伝わっています。
渡し(舟)には、街道にある「往来渡し舟」と、農民が川向いの田畑を耕作するために利用する「耕作通い船」とがあったようです。藪の渡しは「往来渡し舟」、菅井の渡しと開の渡しは「耕作通い船」の機能が高かったと考えられています。
藪の渡しは、奈良街道の綺田(木津川市山城町綺田)から西に分かれ、藪の浜から対岸の下狛地区(相楽郡精華町下狛)へ舟で渡り、郡山街道に結んでいました。木津川東西両岸の主たる街道を短絡する渡し(舟)として、郡山藩参勤交代にも利用されるなど大勢の旅行者でにぎわっていたと想像できます。
菅井は精華町で唯一、近世船問屋が確認されている水運の浜でした。  (「精華町域の「木津川の渡し」」より)]

[旧狛田村の煤谷川(すすたにがわ)河口辺りはかつては木津川を渡る藪の渡しがあったところで、対岸の旧綺田(かばた)村(現木津川市山城町)の藪浜と行き来できた。現在の精華町には上流から菅井の渡し、開(ひらき)の渡しとこの藪の渡しの3ヶ所があり、菅井の渡しと開の渡しは農民が川向いの田畑を耕作するために利用する耕作通い舟であったのに対し、藪の渡しは街道の一部となる往来渡し舟だった。江戸時代中期、寛政の改革の頃に発行された京ガイドブックの拾遺都名所図会に藪の渡口があり、旅人や牛を乗せた渡し舟が描かれている。  (「『精華 狛田 郡山街道(Koriyama Old Highway, Komada, Seika …」より)]

拾遺都名所図会」・「巻之四 前朱雀 薮渡口」、「巻之四 前朱雀 薮渡口解説
薮渡口(拡大図)

[薮渡口(やぶのわたし)
新続古 君がためけふのみそぎに泉河(いづみがは)よろづ代すめと祈りつる哉  俊成]

カメラ位置は煤谷川に架かる歩行者・自転車専用橋南詰めで、カメラ北東方向が藪渡しになると思われます。