「Google Earth で街並み散歩(日本編)」で取り上げた、西国街道の街道沿いについてまとめてみました。
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西国街道
[江戸時代には、いわゆる「街道」が整備されることになった。この街道においては、藩領内であっても江戸幕府の道中奉行が支配するなど、再び中央と地方の連絡が国家的に整備されたともいえる。街道には宿場(宿駅)が指定され、人馬の継立を行う問屋場や、諸大名の宿舎としての本陣、脇本陣、そして武士や一般庶民などの宿舎であった旅籠などが整備された。
江戸時代の道路として、当時、西国街道(または西国往還)とも呼ばれた山陽道は、京都の羅城門(東寺口)から赤間関(あかまがせき:現在の下関市)に至る道として再整備されたものである。幕府は、江戸を中心とした五街道に重点を置く街道整備政策を行ったが、その延長線上に山陽道は脇往還(脇街道)に位置付けられることとなった。この街道は、道幅二間半(約 4.5 m )と定められ整備された 。下関から関門海峡を越えて小倉へと至ることで、江戸と長崎を結ぶ幹線道路でもあった。これらのことは寛永 10 年( 1633 年)の幕府巡視使の巡視を契機としたが 、寛永 12 年( 1635 年)参勤交代制の確立のためにも重要な街道であった。
西国街道のうち、特に 6 宿駅、山崎宿(大山崎町・島本町)・芥川宿(高槻市)・郡山宿(茨木市)・瀬川宿(箕面市)・昆陽宿(伊丹市)・西宮宿(西宮市)が設けられていた京都から西宮の区間を指して山崎街道(やまさきかいどう)、山崎路(やまさきじ)、山崎通(やまさきのみち)といった。大坂を経由せずに西国へ抜ける脇街道として西国大名の参勤交代に利用され繁栄した。
なお、狭義の西国街道として、この山崎通を西国街道と呼び、西宮以西のルートを山陽街道とすることもある。 (wikipedia・西国街道より)]
wikipedia では西国街道について、上記の通り記述されています。このページでは、東寺前から大山崎町までのルートをたどってみました。
平安京鎮護のための官寺として建立された東寺前を出発し、九条旧千本通りある羅城門跡を通か(羅城門跡前に矢取地蔵、地蔵堂前に柳谷観世音菩薩【道標】がある。)し、九条御前交差点で南西方向に進み、西大路通西国街道交差点、西高瀬川を渡り、吉祥院西ノ茶屋交差点を抜け進むと、「京漬物いしだ」東前に移設された「旧西国街道碑」があり、「吉祥院天満宮へ近道」とも刻まれています。
さらに進み、桂川に架かる久世橋を渡り府道 123 号を南下し、府道 207 号の分岐点に「西国街道【道標】」があり、そこで築堤道路から降ります。
嚴嶌神社前を通り、菅原道真が大宰府に流された時ここでお供のものが別れを惜しみ琴を引き名残を惜しんだ所とされる琴弾橋を渡り、久世殿城交差点を抜け、東海道新幹線手前の細い十字路を南進し、殿城第二公園北を西進すると向日町駅東側に至ります、西国街道は JR 京都戦で遮られますので、迂回して向日町駅西側に出ます。
向日町駅前から府道 207 号を南西方向に進みむと、深田橋がありその東詰めに西山浄土宗の本山光明寺への道を示す道標があり、この道標は明治 33( 1900 )年向日町駅前に建てられたものを 2015 年 3 月に移設されたものです。
阪急京都線東向日駅南側踏切りを渡った二又に 2016 年に西国街道の入口に移転された天保 13 年( 1842 )築造の築榊講(つきさかこう)常夜燈があり、その向かいに西国街道碑があります。その一筋先に、向日市寺戸町梅ノ木の道標 4 基が南西角に設置されています。さらにその先、府道 207 号との交差点・南西角に向日市寺戸町中ノ段の道標と最近移設された常夜灯があります。
府道 67 号との合流点に向日町道路元標があり、その向かいに須田家住宅があります。
そこから南進すると直ぐに、向日神社参道があり、参道の傍らに日像上人が、徳治 2 年( 1307 )頃、この石の上で西国街道を行き交う人々に、説法をしたと伝えられている、説法石があります。さらに、南進すると五辻交差点があり、交差点南西方向交点先に五辻常夜灯がありますが、その方向に向かわず南進方向が西国街道です。
石塔寺前を通り阪急京都線高架手前で、一旦新西国街道に合流し、高架南で右通りに入ります、その道を南進して中小路家住宅前を通り、一文橋で小畑川を渡ります。小畑川沿いを南進して馬場一丁目五差路交差点の南方向道路に向かいます。この場所は長岡京市神足商店会北端でブロック舗装され西国街道碑が設置されています。長岡京市神足商店会通りを南進し市役所前通り交差点南西角に新神足村道路元標があります。この地点は西国街道の東寺口から 2 里の地点で一里塚があり、ここから西方向の新西国街道南西角に長岡京市一里塚碑があった。西方向に一里塚の地名(Google Map)が残ります。
さらに、神足商店会通りを南進し、長岡京駅前通りの天神通りにでます。この交差点から西側の府道 67 号交差点北東角に長岡京発掘に一生を捧げられた故中山修一先生が一時期住まわれた場所に長岡京発見之地の碑が設置されています。
西国街道天神通り交差点をさらに南進しすると、神足墓地石仏群の案内板があり、そこから西方向・府道 67 号西側に神足墓地石仏群のある神足・古市共同墓地があります。神足墓地石仏群の案内板前をさらに南進し旧石田家住宅前を通過して、府道 211 号と合流します。この合流点は神足商店会南端で、愛宕山常夜燈・神足神社石柱があり東側400m程の場所に神足神社があり、周辺には神足遺跡、勝龍寺城土塁 空堀跡、勝竜寺城跡、恵解山古墳などがあります。
合流して南西に進み、犬川を渡った二又に与市兵衛の墓の案内碑があり、その南側を進むと、伝 与市兵衛の墓とされる碑が右側にあります。この碑は、清誉浄佐(せいよじょうさ)なる人物が両親の供養のために、高野聖(高野山を拠点に諸国を廻り勧進する僧)を千人寄宿させたことを石碑に刻み、寛文 8 年( 1668 )以降に建てたものとされますが、いつしか仮名手本忠臣蔵の五段目の与市兵衛の墓として言い伝えられてきました。実際の赤穂事件は元禄 15 年 12 月 14 日( 1703 年 1 月 30 日)。
伝 与市兵衛の墓前を通過し、立命館中学校・高等学校敷地前を南西方向に進むと調子地区に国登録有形文化財に登録されている、旧中野家住宅があります。旧中野家住宅は、 2014 年に中野家が長岡京市に寄贈。長岡京市はこの文化的価値の高い建物を利活用したいとプロポーザルを実施し、その結果、長く非公開だった中野家住宅は、障がい者支援団体「一般社団法人 暮らしランプ」運営のもと、夜だけ営業する飲食店「なかの邸」として 2019 年 8 月に生まれ変わり、おばんざいや全国から取り寄せたお酒が楽しめる店になっています。
旧中野家住宅南西側十字路交差点北側に西国街道の道標(よど、やなぎ谷)があります。さらに、西国街道を進むと、サントリー通り(奥海印寺納所線)に合流して、調子八角交差点に進みます。調子八角交差点の北東歩道端に調子八角の道標、調子八角交差点南側の歩車道縁石付近(調子馬ノ池公園)に新しい西国街道碑が設置されています。交差点を新しい西国街道碑方向に南進し国道 478 号高架下の調子 2 丁目交差点を西進し、奥海印寺納所線と分かれ南進します。奥海印寺納所線方向を進むと小倉神社に至ります。西国街道は小泉川を渡り T 字右方向先に、桓武平氏の祖となる葛原親王伝承の墓所と邸宅跡地があり「葛原親王屋敷伝承地」の碑が設置されています。
JR 京都線高架下を潜り、名神高速道路高架を潜り南進し、大山崎小学校交差点を過ぎ、松原の T 字路(この場所から久我畷が分岐しています。)先に石敢当や高瀬川清兵衛石碑があり、この地が大山崎の東黒門跡になり、大山崎宿の東端になります。その先に右に山崎聖天 観音寺一の鳥居があり、鳥居先、 JR 京都線、阪急京都線高架下を抜けると山崎聖天 観音寺参道があります。山崎聖天 観音寺一の鳥居の一筋南の T 字路東方向に山崎津跡案内板があります。さらに南進すると、新幹線と阪急京都線に挟まれた地に大山崎町歴史資料館があります。
阪急京都線高架を潜るとその先が、山崎駅前になります。山崎駅前東側に妙喜庵、西側に離宮八幡宮があり、さらに進み突き当りを右折し、左折すると大阪府三島郡島本町に入ります。
島本町に入ると左に関大明神社、右に山崎宗鑑旧居跡があります。その先 JR 京都線に接する地点に JR 京都線踏切りがあり、踏切りを渡ると山崎ウイスキー館があります。
踏切りを渡らず、さらに進むと十字路があり右にうどん屋「かぎ卯」、左に文具・趣味の店「イリエ」があり、この付近が大山崎の西黒門跡になります。
この先水無瀬川を渡ると左側に、境内に、環境庁認定「名水百選」に選ばれた「離宮の水」がある、水無瀬神宮があります。
「今昔マップ on the web:時系列地形図閲覧サイト|埼玉大学教育学部 谷 謙二(人文地理学研究室) – 京阪神図」の1892~1910年の地図で確認できるルートで、西国街道のルートを設定してみました。