葛飾北斎-諸国名橋奇覧

全国の珍しい橋を画題とした全11図の名所絵揃物。大判錦絵。1833 – 34年(天保4 – 5年)、前北斎為一筆。実在しない橋も含まれる。
「摂州安治川口天保山」 「かめゐど天神たいこばし」 「足利行道山くものかけはし」 「すほうの国きんたいはし」「山城あらし山吐月橋」 「ゑちぜんふくゐの橋」 「摂州天満橋」 「飛越の堺つりはし」「かうつけ佐野ふなはしの古づ」 「東海道岡崎矢はぎのはし」 「三河の八ツ橋の古図」  (wikipedia・葛飾北斎#諸国名橋奇覧より)]

足利行道山くものかけはし(あしかがぎょうどうさんくものかけはし)(ボストン美術館よりダウンロード)

[大判錦絵 天保初年(1833-34)頃
全11図が知られるシリーズのうちの1図で、現在の栃木県足利市にある行道山浄因寺(ぎょうどうさんじょういんじ)の本堂と茶室の清心亭(せいしんてい)を結ぶ天高橋が描かれています。この橋は、『北斎漫画』七編(コマ番号30/34・右ページ)にも登場します。浄因寺は、栃木県の名勝に指定されており、今でも多くの観光客が訪れています。行道山は、山岳信仰の場として栄えましたが、画面下から雲がわきあがり、切り立つ崖の上に建つ清心亭に雲のたなびく情景は、「くものかけはし」の題にふさわしく、俗世と離れた仙郷のようです。  (「諸国名橋奇覧 足利行道山くものかけはし – すみだ北斎美術館」より)]

ゑちぜんふくゐの橋(えちぜんふくいのはし)(ボストン美術館よりダウンロード)

[九十九橋
戦国期以来、福井城下の足羽川に唯一架かる橋であった。1491年(延徳3年)、冷泉為広の越後下向日記には「石バ、百八間ノ橋アリ」とあり、また、水落神明社には1568年(永禄11年)に朝倉氏奉行人が発給した橋修理の文書が存在する。その後、柴田勝家の普請により、北半分が木造、南半分が石造の橋となる。江戸時代には半石半木の橋として有名になり、和漢三才図会東遊記葛飾北斎の諸国名橋奇覧に記載されている。また、橋番付では「福井掛合橋」として東関脇に位置付けられている。 北国街道の一部であり、南詰には小石原門が、北詰には照手門、木戸、高札場、常夜灯があった。
半石半木の構造
当時、足羽川は河川敷の北側を流れ、南側には桃林が広がっていた。流れがある北側の47間(約85 m)が木造、南側の41間(約75 m)が石造であった。橋脚は木造部に14基、石造部に31基あり、径間長は木造が石造の約2.5倍ある。
半石半木の構造になったのは、以下の何れかの経緯によるものと言われている。
●防衛面での説 – 福井の城下町に近い北側を壊し易い木造にすることで、敵の侵入をしづらくするため。
●土木技術面での説 – 当時、足羽川は河川敷の北側を流れていたため、石造にすると橋脚の数が多くなり、川の流れを妨げる虞があった。そこで、橋脚の数を減らすべく、木造にした。
●水運の便での説 – 上記のように石造では径間が狭くなるため、舟が通れるように径間を広くとれる構造にした。
●経済面での説 – 洪水が発生した場合、全てが石造であると全壊するおそれがある。そこで水勢の強い北側を木造にすることで、木造部分だけが流されて石造部は無事に残る。半分の木造だけであれば再建が容易である。また、東遊記には「石の所は千載不朽なれば、唯木の所半分の手間にて済む事なれば、別して心やすかるべし。」とある。
石造部の素材には足羽山で採掘された笏谷石が使用された。石材を運ぶには労力を要するので、足羽山から近い南側を石造にしたとする説もある。 なお、長さが88間(約160 m)であったことから米橋とも呼ばれていた。  (wikipedia・九十九橋より)]

飛越の堺つりはし(ひえつのさかいつりはし)(ボストン美術館よりダウンロード)

[大判錦絵 天保初年(1833-34)頃
飛越(ひえつ)の堺とは現在でいう岐阜県富山県の間です。本シリーズには現存する橋も描かれていますが、この橋は特定できません。橋の下には雲が湧き鳥が飛んでいるので、かなりの高所に吊り橋を渡しているのでしょう。空には雁、山にはつがいの鹿が見えることから、秋の情景と分かります。橋を行く2人の重みで橋がたわんでいますが、頭上に柴を置いて運ぶ女性は、手に風呂敷包みを提げ、荷を負う男性とともに絶妙なバランスで吊り橋を渡っています。  (「諸国名橋奇覧 飛越の堺つりはし – すみだ北斎美術館」より)]

[橋のデザインに興味を抱いた北斎が、各地の変わった形状の橋を描いたのが、全11図からなる「諸国名橋奇覧」シリーズです。中には言い伝えだけで実在しない橋を、想像で描いたものもあります。この作品も、飛騨(岐阜県北部)と越中(富山県)の境に架かる吊つり橋と言われていますが、想像上の橋のようです。飛騨街道(越中街道)は古くから飛騨と越中をつなぐ交通路で、日本海の海産物や内陸の木材などの物資、そして旅人の往来が盛んでした。また、街道の東側には、立山など険しい北アルプスが連なっていました。北斎は、人々が命がけで行く秘境のイメージを、手すりもない吊り橋を描くことで表したといえるでしょう。  (「すみだ区報 |文化・スポーツ」より)]

北斎漫画. 7編」-「コマ番号19/34・信濃粂の岩橋」

善光寺道名所図会. 巻之1-5 / 豊田利忠 編 ; 春江忠近 校正補画」 – 「久米路の橋(2巻-61)

歌川広重画「諸国六十八景 – 国立国会図書館デジタルコレクション」(信濃久米路橋・コマ番号14/38)

かめゐど天神たいこはし(かめいどてんじんたいこはし)(ボストン美術館よりダウンロード)

[亀戸天神(現亀戸天満宮)とその周囲は多くの浮世絵にも描かれる江戸郊外の名所だった。太鼓橋と池の周囲の藤棚が有名であったが、社殿、橋は戦火で焼失し戦後に再建された。太鼓橋は実際に“登る”のに苦労し、女性は手助けが必要だったようだ。  (「「かめゐど天神 たいこばし 東京」(諸国名橋奇覧) 葛飾北斎 …」より)]

[大鳥居をくぐると心字池があり、3つの橋が架けられ、九州太宰府天満宮の境内にならって造られています。これは池と橋を人の一生に見立てた「三世一念の理」と言って、最初の太鼓橋(男橋)は生きてきた過去を、つぎの平橋(ひらばし)は今が見える現在を、つぎの太鼓橋(女橋)は希望の未来をあらわし、3つの橋を渡るごとに心が清められ、神前へと進みます。心字池と太鼓橋はその形により、神様に近づく道具公の波乱の生涯と重ね合わせて造られたように感じられます。  (「1.太鼓橋 男橋(たいこばし)」より)]

亀戸天神社鳥居から見た男橋

かうつけ佐野ふなはしの古づ(こうつけさのふなはしのこず)(ボストン美術館よりダウンロード)

[大判錦絵 天保初年(1833-34)頃
現在の群馬県高崎市烏川(からすがわ)にかかっていたと伝わる舟橋が描かれています。舟橋とは、舟を横に並べてつなげ、その上に板を渡した橋のことです。佐野の舟橋は、古来より和歌や謡曲の題材として親しまれてきました。江戸時代には、このような形の橋は当地になかったので、古いにしえの佐野の舟橋を描いたと考えられています。シリーズ中唯一の雪の景で、冬の情緒が表されたこの作品は海外でも評価されており、印象派の画家クロード・モネも同図を所蔵していました。  (「諸国名橋奇覧 かうつけ佐野ふなはしの古づ – すみだ北斎美術館」より)]

[佐野橋(さのばし)は、烏川に架かる人道橋である。
烏川を挟んで群馬県高崎市の上佐野町側と同市佐野窪町側を結ぶ橋長113m・幅員2.3mの木橋で、洪水の際に橋桁部分が流失することを考慮した流れ橋として設計されている。橋脚はH鋼製で11本(12径間)を有し、その上に木製の橋桁が載る構造である。市は現在の場所に橋が架けられた時期ははっきりしないとしている。
橋がある辺りにはかつて舟を並べて板を渡した舟橋が架かっており、橋を渡って逢瀬を重ねていた男女が親に橋板を外されて川に転落して命を落としたという伝承がある。この「佐野の舟橋」は芸術・芸能の世界においては度々題材となって全国に知られる歴史を持つ。万葉集東歌)において「かみつけの佐野の舟橋とりはなし親はさくれど吾わはさかるがへ」と詠まれて「佐野の舟橋」は悲恋の舞台として知られるようになった。歌枕として西行藤原定家といった著名な歌人の題材になり、能楽の演目のひとつである謡曲「船橋」もこの物語を題材とした。 江戸時代には絵画「諸国名橋奇覧」シリーズにおいて葛飾北斎が舟橋を題材として「かうつけ佐野ふなはしの古づ」を描いている。
周辺にはことわざ「いざ鎌倉」の元となったエピソードで知られる謡曲「鉢木」の舞台となった常世神社や前述の藤原定家をまつる定家神社が存在する。
本橋は台風等による増水によって度々流失被害を受けているが、災害復旧工事では公共土木施設災害復旧事業費国庫負担法による補助の条件として「原形に復旧する」ことが求められているため、市はその都度流れ橋のまま復旧を行ってきた。2019年(令和元年)10月12日には令和元年東日本台風(台風19号)に伴う河川増水の影響で橋桁部分および橋脚4基が流失したことにより通行不能となった。市は2020年(令和2年)6-7月頃の完成を目指して復旧工事に着手するとしたが、2013年(平成27年)の台風18号による流失時よりも被害規模が大きいため、工事費用はこの際の3700万円を上回る見通しとしていた。結局2020年の被害からは約8300万円をかけて復旧工事を終え、2020年7月22日から利用を再開した。  (wikipedia・佐野橋より)]

三河の八ツ橋の古図(みかわのやつはしのこず)(ボストン美術館よりダウンロード)

[三河の八ツ橋とは、伊勢物語の東下りの段で有名なところである。八筋の川に架る八つの橋と言うことになっているが、実際そのような橋があったのかどうか、はっきりとはしない。
北斎の時代には、どうも実存しなかったようだ。そこで北斎は、古図を参考に再現したという体裁をとって、この絵を描いた。
もっとも、この絵の中の八つの橋は、八筋の流れに別々に架っているのではなく、連続した一筋の橋として描かれている。しかも不必要に曲がりくねったり、ある部分では盛り上がったりと、普通は考えられないような形状をしている。このあたりは、北斎一流の遊びの精神が発揮されたものと考えられよう。  (「北斎諸国名橋奇覧(三):摂州天満橋、三河の八ツ橋の古図」より)]

[無量寿寺の所在地である八橋は、平安時代の歌人在原業平が「からころも きつつなれにし つましあれば はるばるきぬる たびをしぞおもふ」と句頭に「かきつばた」の5文字をいれて詠んだように、伊勢物語の昔から知られるカキツバタの名勝地である。花札の5月の10点札「菖蒲と八ツ橋」(「杜若に八ツ橋」とも)は当地がモデルである。また、京都の銘菓八ツ橋は一説にはこの八橋にちなむとされる。  (wikipedia・無量寿寺_(知立市)より)]

摂洲阿治川口天保山(せっしゅうあじかわぐちてんぽうざん)(ボストン美術館よりダウンロード)

[標高4.53m(15尺)の築山国土地理院発行の地形図に山名と共に掲載されており、山頂には二等三角点がある。大阪市ホームページ内では日本一低い山と記載があり、天保山山岳会でも日本一低い山としている。しかし、2014年4月9日の国土地理院の調査で、日和山宮城県仙台市)の標高が震災の影響で変化したことにより、日本で2番目に低い山となった。また、この山は大阪五低山の中の1座とされている。
木津川と並んで大阪湾から大坂市中へ遡る二大航路のひとつであった安治川は、当時は淀川の本流にあたり、淀川が運ぶ大量の土砂を浚渫する必要が生じた。洪水防止と市中への大型船の入港をしやすくする目的で、1831年(天保2年)から約2年間、安治川では「天保の大川浚」とよばれる浚渫工事が行われた。
大坂町人の熱の入れようは相当なもので、大坂町奉行指揮のもと、延べ10万人以上の労働力がつぎ込まれた浚渫工事は、工事自体がお祭り騒ぎだったと伝えられている。浚えられた土砂を安治川河口に積み上げられてできた築山は十間(約20m)ほどの高さがあり、安治川入港の目印とする意図があった。そのため当初は目印山(めじるしやま。目標山とも表記)と名づけられたが、のちに築かれた時の元号から天保山と称されるようになった。
また、この浚渫工事によって天保山の周囲に町が出現した。海岸べりに高灯籠(灯台)が設けられ、山には松や桜の木が植えられて茶店なども置かれ、大坂でも有数の行楽地となった。当時の舟遊びをする人々の姿は歌川広重、葛飾北斎などによって浮世絵に描かれている。江戸時代は大坂町奉行の直轄地だったが、1871年(明治4年)に西成郡天保町となった。  (wikipedia・天保山より)]

天保山公園

摂洲天満橋(せっしゅうてんまばし)(ボストン美術館よりダウンロード)

[摂州天満橋とは、大阪の大川に架る橋のこと、大阪三大橋の一つに数えられている。天満橋の名の由来は、近くにある天満宮から来ている。天満宮の祭である天神祭は、大阪の風物として古くから親しまれてきた。この絵は、その天神祭の様子を織り込んで描いたものである。橋の上には、欄干に祭提灯が並んで掲げられ、橋の下では、祭提灯をかざした船が行き交っている。これは天満船と称する屋形船で、普段は川釣りを楽しむのに使われたが、天神祭の際には、このように祭提灯をかざして、川を行き来したというわけであろう。  (「北斎諸国名橋奇覧(三):摂州天満橋、三河の八ツ橋の古図」より)]

天満橋

すほうの国きんたいはし(すおうのくにきんたいはし)(ボストン美術館よりダウンロード)

[錦帯橋は1673年(延宝元年)に、岩国藩吉川広嘉によって建造されたものである。
初代岩国領主の吉川広家が岩国城を築城して以来、岩国城と錦川を挟んだ対岸にある城下町をつなぐ橋は数回架けられているが、錦川の洪水により流失していた。
3代領主の広嘉は、洪水に耐えられる橋を造ることに着手する。橋脚をなくせば流失を避けられるとのアイデアのもと、大工の児玉九郎右衛門を甲州に派遣し、橋脚がない跳ね橋(刎橋)である猿橋の調査を命じた。しかし、川幅30メートルの所に架けられている猿橋に対し、錦川の川幅は200メートルもあるため、同様の刎橋(はねばし)とするのは困難であった。
広嘉がある日、かき餅を焼いていたところ、弓なりに反ったかき餅を見て橋の形のヒントを得たという。また、の帰化僧である独立性易から、杭州西湖には島づたいに架けられた6連のアーチ橋があることを知り、これをもとに、連続したアーチ橋という基本構想に至ったともいわれている。アーチ間の橋台を石垣で強固にすることで、洪水に耐えられるというのである。
延宝元年(1673年)6月8日に基礎の鍬入れが始められ、児玉九郎右衛門の設計により、石で積み上げられた橋脚を川の堤防に2個、中間に4個の計6個築き、その上から片持ちの梁をせり出した木造の5連橋を架けた。広嘉は近くに住居を構えて自ら架橋工事の監督を行い、扇子を開いてアーチ橋の湾曲の形を決定したという。同年10月、錦帯橋は完成し、地元で家内睦まじいことで評判の農家清兵衛の一家12人による渡り初めが行われた。しかし、翌年の延宝2年(1674年)、洪水によって石の橋脚が壊れ、木橋も落ちてしまったので、同年、家来に石垣の研究をさせて橋台の敷石を強化し再建した。この改良が功を奏し、その後は昭和期まで250年以上流失することなく定期的に架け替え工事が行われ、その姿を保った。
なお、橋は藩が管理し、藩内では掛け替え・補修の費用のために武士・農民など身分階級を問わず「橋出米」という税が徴収されていた。ただし当時、橋を渡れるのは武士や一部の商人だけで、一般の人が渡れるようになるのは明治に入ってからであった。
明治時代になり橋を管理していた岩国藩が消滅すると、1895年に地元有志による「錦帯橋保存会」が設立され、掛け替え資金の募集を行うようになる。  (wikipedia・錦帯橋より)]

錦帯橋

東海道岡崎矢はぎのはし(とうかいどうおかざきやはぎのはし)(ボストン美術館よりダウンロード)

[橋の東の八帖町八丁味噌で知られ、橋の袂の味噌工場が味噌の香りを漂わせている。
矢作橋は慶長6年(1601年)に土橋として架けられ、その後何度も大水に流され改修を繰り返してきた。架橋がみだりにできなかった江戸時代には日本最長の大橋であった。現在の矢作橋は東海道に架かっていた橋よりも少し南側に位置している。
日吉丸(幼い頃の豊臣秀吉)は、8歳の時に奉公に出され、12歳の時に奉公先の陶器屋から逃げ出した。矢作橋の上で寝ていたところ、付近を荒らしていた野武士の一団が通りかかり、その頭が日吉丸の頭を蹴ったところ日吉丸はこれを咎め、侘びていけと頭を睨みつけた。この頭は海東郡蜂須賀村に住んでいた小六正勝であり、日吉丸の度胸の大きさを買って手下にしたという。しかし実際には、矢作橋が架けられた1601年には豊臣秀吉は幼少時代どころか既に亡くなっているため、この話は作り話であるとされている。  (wikipedia・矢作橋より)]

山城あらし山吐月橋(やましろあらしやまとげつきょう)(ボストン美術館よりダウンロード)

[836年(承和3年)に僧である道昌が架橋したのが始まりとされ、当初は100m~200mほど上流にあったとされている。また、もとは橋の南にある法輪寺に因んで「法輪寺橋」と称されていた。鎌倉時代亀山上皇が橋の上空を移動していく月を眺めて「くまなき月の渡るに似る」と感想を述べ「渡月橋」と命名された。
しかし、付近は洪水が多く橋はたびたび流失し、応仁の乱など戦乱による焼失もあった。
1606年(慶長11年)に角倉了以によって保津川の開削工事とともに現在の位置に架け替えられ現代にまで残る渡月橋の原型となった。
2013年の台風18号襲来の際、桂川が氾濫して橋周辺が冠水する被害が出たが、橋が流失するなどの致命的なダメージは無かった。
2018年9月に発生した台風21号により橋の東側の欄干が100mにわたり倒れる被害が出たが、10月には復旧している。  (wikipedia・渡月橋より)]

渡月橋