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木津寺(久修園院)
[宗派は真言律宗、本山は奈良西大寺、その別格本山です。本尊は釈迦如来。縁起によれば霊亀二(七一六)年僧行基による開基で、神亀二(七二五)年に落慶したとされています。
七堂伽藍と多くの塔頭を持つ広大な寺院でしたが、大坂夏の陣(元和元(一六一五)年)の兵火で大半を失いました。
のち、江戸時代(延宝年間)に、宗覚律師(一六三九~一七二〇)が再建しました。宗覚は久修園院の中興の祖といわれ、宗教活動はもとより、多芸多才で、宗教学・地理学・医学・天文学・絵画・工芸・音楽・武術などを極め、後世に残した業績ははかりしれません。
寺所蔵の天球儀(渾天儀)と地球儀は、ともに宗覚の制作(元禄十五(一七〇二)年頃)で、枚方市指定文化財です。
二〇〇四年一〇月 枚方市教育委員会]
[行基菩薩は神亀二年(725) 9月、多くの弟子たちと共に各地行脚の修行をしながらこの近くの山崎川のほとりにさしかかりました。その際、以前ここにあった橋が今は無く、人々が不便な思いをしていると知り、ここに山崎橋を架けられました。
久修園院は、この時に行基菩薩の発願で起工されたお寺で、行基四十九院のひとつ、通称「釈迦堂」、または「木津寺」として親しまれています。
創建当時の境内は七堂伽藍が建ち並んだ大寺で、聖武天皇の勅願所でありました。 しかし年を経て、大阪夏の陣の元和元年(1615)に至り、豊臣方の敗走兵が当院に逃げ込み放火自殺した事により堂塔はことごとく消失します。その後、延宝八年(1680)、中興の祖・宗覚律師により再興されました。
宗覚律師は博識多芸で儒仏はもちろん医学・宗教学・地理学・天文学・武芸・音楽・絵画・彫刻などに通じた枚方が生んだ偉大な文化人でもありました。
慶応四年(1868)の「鳥羽伏見の戦い」の際、旧幕府軍が当院を橋本本営として本陣を構えたと言います。
境内の愛染堂にお祀りしている愛染明王坐像は、高さ6尺(約2メートル)と日本最大級のサイズを誇る愛染明王さまで、当院を復興した宗覚律師の御作です。 律師が人生の後半に至ってもなお律師を思う母の心の深さに思いを致し、母の死後8年目に彫り上げられたと伝えられています。 (「西国愛染十七霊場第12番札所・久修園院」より)]
カメラ南南西方向が木津寺(久修園院)山門です。