淵上旭江作『山水奇観』 – 阿波鳴門
(「国立公文書館デジタルアーカイブ – 山水奇観」より)(拡大画面)
鳴門遠景
(「阿波名所図会. 巻上,下 / 探古室墨海 [撰]」 – 「 1巻 7p 」より)(拡大画面)
[図会左下に「をふけ山(大毛山)」、中央下に「丁子ノ口」、その上に「はだか嶋(裸島)」、さらにそこの左上に戸崎(門崎)、図会右下に「とび嶋(飛島)」、右上に「ふくら浦(福良湾)」が描かれています。「はだか嶋(裸島)」は現在の大鳴門橋の四国側端の橋脚の西側にあります。]
[裸島は鳴門公園千畳敷からみる鳴門海峡の美にひとつの彩りを添えていたが、大鳴門橋の四国側主塔が、島の中央水路寄りに建設され島の真上を道路が通るようになり、景観が一変した。 wikipedia・裸島より)]
[鳴門の渦潮(なるとのうずしお)は、徳島県鳴門市と兵庫県南あわじ市の間にある鳴門海峡で発生する渦潮である。大潮の際には渦の直径は最大で30メートルに達するといわれ、渦の大きさは世界最大級といわれる。
鳴門海峡は、本州と四国の間にある瀬戸内海と太平洋とを結ぶ海峡の一つで、幅が約1.3キロメートル。潮汐により1日に2回、大量の海水が瀬戸内海に流れ込み、また同様に1日に2回瀬戸内海から流れ出す。瀬戸内海と太平洋の水位差は最高で1.5メートルにも及ぶ。海峡の幅が狭いことに加え、海底の複雑な地形も影響し、潮流は13キロメートル毎時から15キロメートル毎時の速度で流れる。大潮の時には20キロメートル毎時に達することもある。この潮流の速度は日本で一番速く、イタリアのメッシーナ海峡やカナダのセイモア海峡(Seymour Narrows)と並んで「世界三大潮流」にも数えられることもある。
この速い潮流と、海峡両岸に近い穏やかな流れの境目において、渦が発生する。渦の直径はおよそ15メートルほどに達する。 (wikipedia・鳴門の渦潮より)]
磯崎
(「阿波名所図会. 巻上,下 / 探古室墨海 [撰]」 – 「 1巻 9p 」より)(拡大画面)
[図会左ページ、左上に人麻呂社(人丸神社)、その下に清少納言の塚が描かれています。場所は岡崎海岸と思われます。]
木津上浦
(「阿波名所図会. 巻上,下 / 探古室墨海 [撰]」 – 「 1巻 10p 」より)(拡大画面)
[木津上浦(こつかみうら)
板野郡にあり。むかしは海辺にて勝景の地ときこえし。今なほ入江存す。木津上山(こつかみやま)の金毘羅権現は、別当長谷寺なり。毎年十月十日の祭事には、近国より相撲あつまりて、賑ふ事おほかたならず
木津上のうらにとしへてよる浪もおなじ所にかへるなりける 管家
※街道(撫養街道)に面して仁王門があり、仁王門左(東)に「てうこく寺」がある。 「長谷寺」には客殿・庫裏・薬師堂などと思われる堂宇が並ぶ。仁王門からまっすぐに広い石階の参道があり「かんおん堂」に至る、さらに左(東)に相撲場(土俵)があり、「こんぴら社」に至る。 (「阿波長谷寺三重塔初重 – Biglobe」より)]
大瀧山持明院
(「阿波名所図会. 巻上,下 / 探古室墨海 [撰]」 – 「 1巻 11p 」より)(拡大画面)
[阿波名所図會では山腹には「滝,観音堂,祇園社,行者堂,三十三所観音堂,八祖堂,坊舎,十宜亭,大塔」,山下には「仁王門,本堂(本尊薬師如来),方丈,庫裏,天神社絵馬堂,八幡宮」があったことが知られます。明治になり蜂須賀家が公式祭事を神式に改めたため,保護がなくなり,さらには寺領も廃止され,明治4年には廃寺となりました。昭和20年7月3~4日にかけての徳島空襲で仁王門,本堂(薬師堂),三重塔,祇園社が焼失しました。 (「発掘だより – 勝瑞城館跡」より)]
藍玉
(「阿波名所図会. 巻上,下 / 探古室墨海 [撰]」 – 「 1巻 14p 」より)(拡大画面)
[藍玉(あいだま)とは、藍の葉を発酵・熟成させた染料である蒅(すくも)を突き固めて固形化したもの。玉藍とも。藍の葉を収穫して乾燥させた後、蔵の中で寝かせ、これに水を打って良く湿らせながら上下に撹拌し、約75 – 90日間発酵させたものを再び乾燥させると、無色の物質であるインディカンが酸化されて青色のインディゴへと変化して、その色が濃くなることで黒色の土塊状の物質が出来る。これを蒅(すくも)と呼ぶ。蒅の状態でも染料としては十分使用可能であったが、運搬に不向きであったために後にこれを臼で突き固めて乾燥させて扁円形の小さな塊にすることによって運搬を容易にした。これが藍玉である。 (wikipedia・藍玉_(染料)より)]
[阿波藩では、江戸時代から明治30年頃まで藍染めが盛んであり、藍住町もその例に漏れず阿波藍の主要産地であった。現在でも藍染めが町の特産品して知られており、自治体に含まれるものとしては全国唯一の「藍」という字の由来となっている。町南部には資料館「藍の館」があり、そこでは阿波藍の歴史を知ることや藍染め体験が可能である。 (wikipedia・藍住町より)]
桜間池
(「阿波名所図会. 巻上,下 / 探古室墨海 [撰]」 – 「 1巻 15p 」より)(拡大画面)
[藍は、徳島より北の郡(こほり)にて作れり。當國の名産にして、諸国に美とす。 桜間の池 [名西郡(こほり)にあり] 鏡とも見るべきものをはるくればちりのみかかるさくら間の池 よみ人しらず 白雲は木の間にちりて春の水 李卜 (「阿波名所図会上 (2ページ目) – Togetter」より)]
[1406年(応永13年)に編集された夫木和歌集において「鏡とも見るべきものを」と詠まれた美しい池がありましたが、江戸時代後期には池跡となっていたようです。それを惜しんだ阿波藩主蜂須賀斉昌の命により、海部郡由岐浦の海中にあった巨岩を文政11年(1828年)から7年間もかけて引き上げ、この地に建立されました。 (「桜間の池跡と石碑 – 石井町」より)]
矢上の楠
(「阿波名所図会. 巻上,下 / 探古室墨海 [撰]」 – 「 1巻 16p 」より)(拡大画面)
[板野郡矢上村(現在の徳島県板野郡藍住町矢上)にあり 太さ十五圍]
[この付近は平安時代初期の7世紀中頃まで皇室領の春日部屯倉(みやけ)が置かれていたところで、春日神社はそのころからあるそうです。祭神は武甕槌命(たけみかづちのみこと)、及び他の春日四神です。
藍住町の町木はこの「矢上の大樟」にちなんで「樟(クスノキ)」です。大クスは火災や台風でなどでかなり損傷を受けており、根元には大きな空洞が口を開けています。大きな瘤(コブ)もあり、ゴツゴツした根元部は大きくふくらみ、大クスの貫禄は十分です。 (「矢上の大クス – 巨樹と花のページ」より)]
五百羅漢
(「阿波名所図会. 巻上,下 / 探古室墨海 [撰]」 – 「 1巻 17p 」より)(拡大画面)
[板野郡矢武村(現・徳島県板野郡板野町羅漢林東)にあり。別当寺は庄厳院 地蔵寺。当寺は弘法大師の遺跡にして一本寺なり。此山に往古より羅漢原とてありける。去る宝暦の頃より願主ありて檀信を十方にもとめ、日あらずして広大の精舎を創建せり。此辺に筆塚とて古跡あり。 (「日本一の五百羅漢(地蔵寺 奥之院 羅漢堂) – awa-otoko’s blog」より)]
鳴瀧
(「阿波名所図会. 巻上,下 / 探古室墨海 [撰]」 – 「 1巻 18p 」より)(拡大画面)
[鳴滝 美馬郡(こほり)幅山(現・徳島県美馬郡つるぎ町貞光猿飼)にあり。此の滝、三段にして、高き事二十余丈、此の瀧の脇に、土竃(どがま)とて、土中の岩屋に渕あり。石を投ぐれば、風を起こして雨降る。また、此の川下に、その形□洞の如く、大きさ三圍(かかへ)ばかりなる蜂の巣あり。 (「阿波名所図会上 (2ページ目) – Togetter」より)]
祖谷の高橋
(「阿波名所図会. 巻上,下 / 探古室墨海 [撰]」 – 「 1巻 19p 」より)(拡大画面)
[祖谷の高橋 [祖谷の独木橋(ひとつばし)とも名づけ、ほけのかけはしともいへり] 美馬郡祖谷にあり。柴の橋より、小ほけ、大ほけとて、谷へさし出たる巌の細き道を登り□ぐれば、そのうへに、一木を四方につくり、幅三尺長(た)け十間餘りなる橋をかけたり。此の橋のもとより下を見れば、鳶(とび)の舞ふ事、雀のごとくに見ゆされば、他□(よそ)の人は、怖れて渡りえず。土人、これをわたるに平道のごとし。 (「阿波名所図会上 (2ページ目) – Togetter」より)]
祖谷のかずら橋
(「阿波名所図会. 巻上,下 / 探古室墨海 [撰]」 – 「 1巻 20p 」より)(拡大画面)
[祖谷の□橋(かづらばし) [藤□(かづら)にてつくりたれば、ふじばしとも名づけ、また、□□のはしともいへり] 此の地、高橋に隣る。橋のはば四尺、長(た)け三十間、高程(たかさ)、水際より十五六丈。此の橋、五尺許りに切りたる□(かたぎ)を二つにわりて横とし、藤□(かづら)を縦とし、布織るごとくして、織り目の廣程(ひろさ)五六寸、四方あり。これは、風吹きぬきて、橋左右へふらざるためなり。此の橋の左右に、同じ□(かずら)にて、欄干をつくり、両岸の大木に此の橋を結い付け、蜘縄(くもづな)とて、蜘の巣のごとく彼此(あなたこなた)の木より、千筋の□(かづら)をかけて、橋の重さを補(たす)け、かつ渡る人に便りす。すべて、藤□(かづら)にて造りたれば、堅固なれども橋一面に、織り目の風穴ありて、十餘丈の谷を見くだし、風吹くときは、橋左右に振り動くゆへ、わたる人怖くて歩□ず。土人は、平地をゆくにひとし。 (「阿波名所図会上 (2ページ目) – Togetter」より)]
祖谷のかずら橋
[祖谷のかずら橋の場合、古文書によると、かつては7ないし13の橋が存在したとされる。最古のものは1646年(正保3年)の「阿波国図」にかずら橋が7つ存在したと記録されている。また1657年(明暦3年)「阿波国海陸度之の帳の写」の祖谷紀行には13のかずら橋があったとされる。起源はその昔、空海が祖谷に来たとき困っている村民のために架けたとか、あるいは平家の落人がこの地に潜み、追手が迫ってもすぐ切り落とせるように葛を使って架設したとの伝説もあるが定かではない。
現在の西祖谷山村善徳のかずら橋は長さ45m、幅2m、谷からの高さ14mで日本三奇橋の一つであり、重要有形民俗文化財である。大正時代に一度、ワイヤーを使った吊橋に架け替えられたが、1928年(昭和3年)、地域振興目的でかずら橋が復活された。ただし安全のためワイヤーは使われており、かずらはワイヤーを包み込む装飾とも言える。2022年10月時点で、入場料は大人550円、小学生350円、幼児無料。祖谷渓の西側から東側への一方通行となっている。 (wikipedia・かずら橋より)]
「阿波名所図会-2」