眉山
(「阿波名所図会. 巻上,下 / 探古室墨海 [撰]」 – 「 2巻 3p 」より)(拡大画面)
[眉山 徳島の西にあり 山形(やまのかたち)眉(まゆ)のごとし 此山北に大滝山 春日の社 南に勢見山(せいみやま)の観音 金毘羅の社 中央に瑞巌寺 八幡宮 元山(がんざん)大師等の霊仏霊社連綿として尊し]
[図会左ページ右上に眉山、その左下に勢見山、右ページ上に大滝山、その右上に大滝山三重塔、その下街並みに寺町、新町(現-西新町・東新町)、新町川、新町橋、内町(ひょうたん島)が描かれています。]
競馬
(「阿波名所図会. 巻上,下 / 探古室墨海 [撰]」 – 「 2巻 4p 」より)(拡大画面)
[「大麻比古神社 土地の人彌吉神社と称す」と記述され、大麻比古神社の奉納競馬の様子が描かれています。]
[競べ馬 大社の神○(まつり)に名馬をあつめて、遅速をくらべ、白赤のはたをふりて、勝負(かちま)けをしらしむ。後馬(あとむま)すすみて、勝ちたる時は、白きはたをふるなり。 (「阿波名所図会下 – Togetter」より)]
北山桜
(「阿波名所図会. 巻上,下 / 探古室墨海 [撰]」 – 「 2巻 5p 」より)(拡大画面)
[図会左ページ左端中央に北山村(現・徳島市北山町)と記述され、右ページ右端に記述される地蔵寺は地蔵院東海寺のことと思われます。図会はこの地にかつてあったサクラの巨樹下での花見の様子が描かれています。]
北山桜(中田村)
(「阿波名所図会. 巻上,下 / 探古室墨海 [撰]」 – 「 2巻 6p 」より)(拡大画面)
[図会左ページに八まん宮(東八幡神社)、千代の松原が描かれ、右ページに中田村(現・小松島市中田町)と記述されています。]
[北山桜 勝浦郡(こほり)北山(現・徳島市北山町)にあり。枝葉四方(よも)に栄へて縦横廿間余。年ごとの春は、貴き賎しきこの桜をたどり○○○。花の色香をめでて終日(ひねもす)木の○とにあそびて春○(しゅんけ○)いとおかし。地蔵寺山は古の勢見山なり。源の義経公、勝浦の兜島に着船ありて、恩山寺に宿り給ひ、それよりこの山にてあとよりつづく勢を見給ひければ勢見山と名づけし。今なを義経の駒つなぎ松あり。公それより讃岐の屋島に越えたまふとなり。 (「阿波名所図会下 – Togetter」より)]
灌頂が瀧(かんじょうがだき)
(「阿波名所図会. 巻上,下 / 探古室墨海 [撰]」 – 「 2巻 7p 」より)(拡大画面)
[灌頂の滝 勝浦郡(こふり)鶴林寺の奥の院慈眼寺山にあり。この滝半(なか)ばにして巌にあたり水くだけて霧のごとくなりたるが、日に映じて五色となり、その中に不動尊現じ給ふ。土人(どにん)御来○と称す。弘法大師、此の滝にて灌頂し給ひければとて、灌頂が滝となんいへり。千尺の嶮岩の○○に木の卒都婆立ちたり。弘法大師投げ給うとぞ。これを投卒都婆と名づく。 (「阿波名所図会下 – Togetter」より)]
日峯眺望
(「阿波名所図会. 巻上,下 / 探古室墨海 [撰]」 – 「 2巻 8p 」より)(拡大画面)
[日峰権現 – 現在の小松島市中田町の日峰神社。図会左ページ左端中央に日の峯神社、右ページ下に描かれる神田瀬川に架かる橋がかんだいばし(神大橋)、中央に記述される弁財天が金磯弁財天、その右上に和田浦、そこの左上方向に和田の岬が描かれています。]
[神田瀬川に架かる神代橋は「阿波名所図絵」にも描かれ、江戸時代から何度も架け替えられながら現在に至る。 (「小松島市の川」より)]
霊鷲山 鶴林寺
(「阿波名所図会. 巻上,下 / 探古室墨海 [撰]」 – 「 2巻 10p 」より)(拡大画面)
[地元の人や遍路からは「お鶴さん」と呼ばれ親しまれているが、「一に焼山、二にお鶴、三に太龍」と並び称される阿波の難所の一つで、鶴林寺山(標高516.1m)の山頂近くにあり、本堂の位置で比較すると標高495m付近で八十八箇所中7番目、表参道は「へんろころがし」といわれる急傾斜の山道である。 (wikipedia・鶴林寺_(徳島県勝浦町)より)]
舎心山 太龍寺
(「阿波名所図会. 巻上,下 / 探古室墨海 [撰]」 – 「 2巻 11p 」より)(拡大画面)
[太竜寺山弥山(標高600.1 m)の山頂近くに位置し、本堂は標高505 m付近で八十八箇所で6番目の高さにあり、大師堂は、御廟の橋、拝殿、御廟が並び高野山奥の院と同じ配列になっていて、その大伽藍は西の高野と称され、阿南室戸歴史文化道の指定、とくしま88景の選定を受けている。阿波では「一に焼山、二にお鶴、三に太龍」と称され、へんろころがしと呼ばれる難所の一つである。 (wikipedia・太龍寺より)]
津峯の眺望
(「阿波名所図会. 巻上,下 / 探古室墨海 [撰]」 – 「 2巻 13p 」より)(拡大画面)
[図会は橘湾の鳥瞰図で、左ページ左端手前中央下に大潟、その左上にアコメ浦(袙(あこめ)海岸)、その右に長シマ(長島)、右ページに弁才天シマ(弁天島)、左ページ右上にコカつシマ(小勝島)、その左方向にタカシマ(高島)、ウルメシマ(ウルメ島)、ノゝシマ(野々島)が描かれています。]
[長島 – 1811年(文化8年)に作版の阿波名所図「津峰の眺望」には、島かげに十数艘の帆船が塩積みのため停泊している様子が描かれており、「長島の湊には入船泊舟多し」と記している。 (wikipedia・長島_(徳島県)より)]
石門
(「阿波名所図会. 巻上,下 / 探古室墨海 [撰]」 – 「 2巻 14p 」より)(拡大画面)
[石門 那賀郡(こほり)大原村(現・阿南市長生町水ケ谷)にあり。両厳たかく峙(そばた)ちて門をなし、下に渕ありて景色(けいしゃく)す□し。 (「阿波名所図会下 – Togetter」より)]
[津乃峰山と鍛治ヶ峰の境に位置。高さ約30mの巨石が門のように並立していることから石門と呼ばれ、ロッククライミングのゲレンデとして利用されることが多い。公園の周囲はフジの名所として知られる。麓には「ひょうたん池」があり、池の表面からは断崖や樹々が映し出される。池の出口付近には落差4m程の「石門の滝」と呼ばれる滝がある。 (wikipedia・石門公園より)]
阿波の小島
(「阿波名所図会. 巻上,下 / 探古室墨海 [撰]」 – 「 2巻 15p 」より)(拡大画面)
[阿波の小島 那賀郡椿泊(現・阿南市椿町小島)にあり 図会は椿泊浦で、図会中央上に小じま(小島)が描かれています。]
[阿波の小島 那賀郡(こほり)椿泊浦にあり。 百傳(ももつて)のはまのうらはをこぎくれど阿波の小島は見れどあかぬかも 人麿 日和佐浦の名産 青海苔 (「阿波名所図会下 (2ページ目) – Togetter」より)]
椿町小島のカメラです。
日和佐浦
(「阿波名所図会. 巻上,下 / 探古室墨海 [撰]」 – 「 2巻 15p 」より)(拡大画面)
[日和佐浦の名産青海苔と記述され、図会は日和佐浦から日和佐川上流部の玉ツシ山(玉厨子山・四国八十八霊場 第23番 泰仙寺)を描いています。]
[玉津し山 海部郡(こほり)日和佐浦にあり。則ち薬王寺の奥の院にしてふるき霊場なり。中古(ちうこ)、弘法大師、更に本尊を彫刻し給へり。赤人の唄によめるも此の山ならん。その名を霊山とぞ聞こへし。 汐ひれば玉もかりつつ神代よりしかもとふときたまつしま山 赤人 (「阿波名所図会下 (2ページ目) – Togetter」より)]
八坂八濱 行基菩薩古跡
(「阿波名所図会. 巻上,下 / 探古室墨海 [撰]」 – 「 2巻 16p 」より)(拡大画面)
[八坂八濱 海部郡(こほり)にあり。此の間の里程(みちのり)、凡そ二里半。八坂八濱とは、大坂、内妻の濱、松坂、古(ふる)江の濱、歯朶(しだ)坂、九島の濱、福良坂、ふくら濱、萩坂、しろ□の濱、鍛冶屋坂、□□(をづる)の濱、楠坂、桶島の濱、借戸坂、三浦の濱。土人(とにん)、これを八坂八濱といへり。此の山濱それぞれ詠(ながめ)あり。沖には、大島、でば島、櫂投げ島等の島々相対し漁父うらうらに釣をたれ、風帆島のくれゆく風景□□めならず。 (「阿波名所図会下 (2ページ目) – Togetter」より)]
母川鰻
(「阿波名所図会. 巻上,下 / 探古室墨海 [撰]」 – 「 2巻 18p 」より)(拡大画面)
[母川の鰻 海部郡(こほり)□瀬(そのせ)村の山際(きは)にあり。此の川、一方は山、一方は田地なり。その山の巌(いわ)の下、渕にして底をしらず。此の大魚、岩の下を穿(うがつ)ってすむならん。一尾の□鰻、この巌の洞(ほら)にて太り、出(いづ)る事あたはず。昔時(そのむかし)いでんとして、岩をせりわりたればとて、せりわり岩と名づく。今□にとるところの鰻は、大(ふと)さ壱尺五六寸、長さ三尺四五寸なり。□に小魚を追ひ、これを呑みて食(じき)とす。 (「阿波名所図会下 (2ページ目) – Togetter」より)]
[1811 年(文化 8 年)記載:海部郡海陽町高園,母川「阿波名所図会」(探古堂墨海,1811)に母川鰻として図および記述がある。普通に捕れる鰻は長さ 3 尺 4~5 寸(約 1 m)、太さ 1 尺 5~6 寸(約 0.5 )とある。1 尾の鰻が岩の下を穿って住み、大きくなって出ることができなくなったので、岩を割って出たという、天然記念物指定地域の中程にあるセリ割り岩の伝承についても述べられている。 (「徳島県におけるオオウナギ Anguilla marmorata の記録」より)]
[海部川の合流点西方、山麓の「せり割り岩」上下2kmは国の天然記念物であるオオウナギの生息の北限として保護されている。 (wikipedia・母川より)]
母川蛍
(「阿波名所図会. 巻上,下 / 探古室墨海 [撰]」 – 「 2巻 19p 」より)(拡大画面)
[母川の蛍 海部郡(こほり)□瀬(そのせ)村にあり。蛍のあふき、此のすにみてり。この蛍、関の柵(□つひ)にとまり、また水車のまわりにしたがひ、或は飛び或はとまり、また、丸くかたまりたる蛍、谷より飛び来たり、川の上にて四方(よも)にちり、また、数万の蛍、南方より飛びきたり、この処にて、合戦をなする□ごとなり。 (「阿波名所図会下 (2ページ目) – Togetter」より)]
鈴峯山圓通寺
(「阿波名所図会. 巻上,下 / 探古室墨海 [撰]」 – 「 2巻 20p 」より)(拡大画面)
[鈴峯山圓通寺 海部郡宍喰浦にあり。當寺の濫觴は、應安三年の頃、櫛川村の猟師(かりうど)、獅子のぬたうちせしに、鈴の音を□てたづねしに、今の三尊石の間に、観音、□馬に乗り鈴を持ち給ふを拝す。猟師発心して、堂をたて、大悲尊を安ず。今なを堂の側らに三尊石とて、大石あり。また、その脇に小庵ありて、竜宮の名器なりとて、茶釜をかけたり。水には、□を納む。この釜に、魚の形あれども、□に□ゆれば、すみつきて見へかたし。そのすみをあ□はんとて□をかくれば、たちまち雲を起こして雨降る。 (「阿波名所図会下 (3ページ目) – Togetter」より)]
[鈴ヶ峰の頂上に堂があり、観音像が安置されており、かつての円通寺跡である。円通寺は明治期には参拝者が多く、文化年間の「阿波名所図会」にも大きな寺の様子が記載されているが、現在は無住で荒廃している。 (wikipedia・鈴ヶ峰_(徳島県)より)]
鈴ヶ峰からの眺望
轟滝
(「阿波名所図会. 巻上,下 / 探古室墨海 [撰]」 – 「 2巻 21p 」より)(拡大画面)
[轟の滝 [土人かれい滝となづく] 海部郡(こほり)にあり。此の滝、上に水分岩(みづわけいわ)さしいで、千𠀋の巌、両方より立ちかこひ屏風をまるくたてたるごとし。滝の高き □と幾千尋(いくちひろ)といふ事をしらず。土人、水上(みなかみ)にのぼり、水分岩の邊より百尋の縄をたれて、高□(たかさ)をはかりけるに、滝の半ばをすぎず。また、百尋ましてたるるに、その縄、滝の半ばをすぎざるに、忽ち風縄をふきあげ、滝鳴り雨降りて、しること□□ず。これ名滝の故とぞきこへし。また、をく山にて材木をきり、此の滝よりをとして、大川へながし□す。これ、土人の恒の業なり。しかるに、その材木、毎日滝へながし落とす事、そこばくなるが、数日を□れども、滝つぼに□みて、川下へ流れいでざる事あり。土人滝祭りすれば、数多(あまた)の材木、一時に流れいづるとなり。滝の側(かたわら)に、神社あり。轟明神と名づく。 (「阿波名所図会下 (3ページ目) – Togetter」より)]
「阿波名所図会-1」