マーカーは高麗橋です。
高麗橋
[大坂城築城に際して、西惣構堀として東横堀川が開削され、その際に架橋されたと言われており、慶長9年8月銘の擬宝珠が発掘されている。橋名の由来には、東詰付近に難波高麗館(なにわのこまのむろつみ)が置かれていた説と、朝鮮国使来朝のために架橋された説などがある。
1870年(明治3年)には大阪で最初の鉄橋に架け替えられ、「くろがね橋」などと通称された。設計は本木昌造で、資材はイギリスから輸入されたが、当時の日本の契約に対する認識不足により当初の2倍ほどの価格を完成後に追加請求され、外交上の問題にまで発展した。1929年(昭和4年)には大阪市の第一次都市計画事業の一環として鉄筋コンクリート製のアーチ橋に架け替えられた。
大坂に12あった公儀橋の一つで、かつて高麗橋周辺は豪商の店舗が立ち並び、日本第一の商都・大坂の富が集中する、まさに大坂の心臓部であった。江戸時代には西詰に高札場が設置されており、明治初期にかけて京街道、中国街道、暗越奈良街道、紀州街道、亀岡街道などの起点が順次高麗橋に変更され、明治政府は高麗橋東詰に里程元標を置き、西日本の道路の距離計算の起点とした。
里程元標はその後、旧:道路法施行の1919年(大正8年)に道路元標となり、1922年(大正11年)に中之島の大阪市役所前に移され、道路法施行の1952年(昭和27年)に梅田新道交差点に移された。
里程元標跡・wikipedia-photo
『写真浪花百景』より「高麗橋」。明治初期の姿を描いている。wikipedia-photo
(wikipedia・高麗橋より)]
「摂津名所図会. [前,後編] / 秋里籬嶌 著述 ; 竹原春朝斎 図画」-「4巻32・高麗橋矢倉屋敷」
[往時の東横堀川の姿はどのようなものだったのだろう。上図は、1855~60年頃に著された「摂津名所図会」(暁 鐘成)の1枚で、高麗橋から西を望んだ様子を描いたものである。まず、橋詰めの交差点に対面する2棟の楼閣が目につくが、これが図のタイトルにもある矢倉屋敷である。高麗橋から東に直進すると大坂城に通じることから、監視の目的で建てられたものと考えられる。折しも高麗橋をわたっているのは、下城する武士の一行であろうか。橋のたもとには、お触れなどを掲げる高札が設けられている様子も描かれている。陸上の輸送手段は人が担ぐか馬の背に積むかであり、荷車は使われていない。また、川に接する道路は、通行のほか荷物の仮置き場や整理場としての利用が容認されていたように見える。東横堀川の水面は道路より5mほど低い位置にあり、川と道路の連絡のために石段(岸岐(がんき)と呼ばれる)が設けられている。岸岐の下には桟橋などの設備はなく、板を渡して小舟に乗込んでいる。 (「東横堀川 – 関西の公共事業・土木遺産探訪」より)]
「櫓屋敷考 (上) – J-Stage」「今週の今昔館(165) 高麗橋 20190529」
大阪の地図(1686年)(拡大図)
絵地図を右にスクロールし、天神橋左下、東横堀川の上から二番目に高麗橋が描かれています。
カメラ位置は高麗橋西詰めです。