マーカーは一庫湯跡です。
一庫湯跡
[江戸時代後期に刊行された「摂津名所図会」(中央図書館調査相談室で閲覧可)。同書は摂津国(おおむね大阪府北中部や兵庫県南東部)の名所を絵画と文章で紹介した郷土誌です。
この図会には、江戸時代、摂津国にあった湯として「有馬温泉」とともに「一庫湯」と「平野湯」の様子が描かれています。
「一庫湯」は一庫ダムの堰堤(えんてい)下、一庫大路次川の渓流沿いに。あった温泉場です。図会には「川辺に楼(たかどの)造りにして風流なり。すべてのほとり幽遂閑寂にして、静座悠々、塵垢(じんこう)を隔てた勝邑なり」とあり、趣深い温泉場だったことがうかがえます。
昭和50年代に一庫ダムが出来るまでは、温泉場の対岸にあった旅館で湯に入れたそうです。しかし、温泉場は現在小さな公園になり、川沿いにわずかながら石垣が残るだけとなっています。 (「住宅都市の川西市 実は温泉郷だった !?」より)]
[現場から1キロほど西にある慶積寺(けいしゃくじ)(川西市一庫3)の住職、木田覚照(かくしょう)さん(77)は昭和20年代、小学生だった頃に温泉宿を訪れた記憶がある。「同級生がそこの息子で見舞いに行った。部屋に通されるとき、建物の奥に階段がいくつもあって、建物自体が階段状になっていたことは覚えている」。その後、この温泉宿は廃業し、川向かいで豆腐料理店を営んでいたという。
そんな風景は、洪水調整と人口増に伴う飲み水を確保するために計画された「一庫ダム」によって一変する。一部の家はダムによってできた貯水池に沈み、付近には立派な道が敷かれた。ダムは16年の歳月をかけ、1983(昭和58)年に完成した。
一庫ダム管理所(川西市一庫)から、一庫湯があった一帯を見下ろすと、「摂津名所図会」と同じように、川沿いに石垣が並んでいる。ただ、近づくと温泉宿のあたりは「一庫上ノ畑公園」になっていた。温泉街の往時をしのぶものは見当たらない。まさに「幻の名湯」と言える。
「実は…」と語るのは、一庫ダム管理所の斉藤光悦(こうえつ)所長代理。ダム管理の一環で2017年11月、川ののり面の石垣から湧き出た水の成分を分析した。その結果、温泉法に基づく温泉の成分に適合する水であることが分かったという。
さらに、湯治場によくある「お薬師さん」の存在も見逃せない。木田住職は「うちに薬師堂がある」と話す。温泉宿の息子で豆腐料理店を営んでいた同級生から「もう温泉もないし、寺でまつってくれないか」と頼まれ、1999(平成11)年、薬師堂は慶積寺の境内に移されたのだという。
ダムから流れ出た渓流を眺めていると、在りし日の名湯に漬かりながら聞くせせらぎの音が耳にこだました。(中川 恵) (「はんしん「旧」名所(8)摂津三湯の「一庫湯」 – 神戸新聞」より)]
「摂津名所図会. [前,後編] / 秋里籬嶌 著述 ; 竹原春朝斎 図画」-「6巻45・一庫湯」
カメラ位置は一庫ダム下流一庫橋で、カメラ西南西方向先が一庫湯跡と思われます。