一心寺

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一心寺
[一心寺(いっしんじ)は、大阪市天王寺区にある浄土宗の寺院。山号は坂松山(ばんしょうざん)。骨仏の寺としてよく知られている。天王寺公園に隣接した上町台地の崖線上に建ち、広い境内を有している。
文治元年(1185年)の春、四天王寺別当であった慈円の要請によって、法然が四天王寺の西門の坂のほとりに四間四面の草庵を結び「荒陵の新別所」と称し、後に「源空庵」と改名して住んだという。後白河法皇が四天王寺参詣の際に訪れて法然と共に日想観を修した。当時草庵の西は海を遠く見渡せ、極楽浄土の瑠璃の地のようであったという。慶長元年(1596年)、三河国の僧侶であった本誉存牟(ほんよぞんむ)上人が法然の旧跡であるこの地で一千日の念仏修法を行い、寿命山観称院一心寺として再興した。彼の一心称名(しょうみょう)をもって寺ができたため、一心寺という名になったといわれる。
慶長5年(1600年)2月、徳川家康の8男仙千代が大坂で夭折し、その葬儀を一心寺で行った。住持である存牟が家康と同郷の出身であり、また家康が浄土宗の信者であったことにもよる。家康は境内の坂の孤松のすがたを讃えて、「坂松山」の山号とその寺額を贈り、仙千代の戒名から「高岳院」の院号も贈ったため、一心寺は坂松山高岳院一心寺と改名した。
慶長19年(1614年)の大坂冬の陣では家康の陣が茶臼山に隣接したこの寺に置かれている。この寺には翌慶長20年(1615年)の大坂夏の陣天王寺・岡山の戦いで最前線に立ち討ち死にした本多忠朝の墓所があるが、彼は酒を飲んでいたため冬の陣で敗退し家康に叱責され、見返そうと夏の陣で奮戦したが討ち死にし、死の間際に「酒のために身をあやまる者を救おう」と遺言したといわれることから「酒封じの神」とされるようになった。今でも墓所には禁酒を誓う人がよく詣でている。
江戸時代、一心寺は寺社奉行直轄の檀家を持たない特別寺院となったが、文化文政時代には衰微していた。だが、50世真阿上人が天保年間(1831年 – 1845年)の中頃に復興させている。復興の一因としては、庶民向けに宗派を問わずに年中無休で無縁の霊を供養する施餓鬼供養を始めたことがあげられる。これによって当寺は「おせがきの寺」として賑わった。また、この評判から、大坂に丁稚奉公で出てきた地方の次男坊らが大坂で先祖供養をしたいと先祖の分骨を一心寺の納骨堂に寄せるようになり、後に納骨堂が限界を迎えるようになった。そこで、1887年(明治20年)に嘉永4年(1851年)から同年までに納められた約5万体の遺骨を粉砕して粉にし、鋳型で固めて阿弥陀如来像を制作した。これが骨仏(こつぶつ)の始まりである。
小堀遠州好みの数奇屋「八窓の茶室」や、豊臣大坂城の三の丸にあった玉造門を移築した「黒門」と呼ばれた大きな長屋門も有名であったが、1945年(昭和20年)3月13日・14日の第1回大阪大空襲で境内のほとんどと6体の骨仏を焼失した。戦後、伽藍を再建すると共に、1947年(昭和22年)には空襲で焼失した戦前分の6体の骨仏の残骸に、新たに約22万体の遺骨を加えて第七期骨仏を完成させ、骨仏作りを再開した。以降は10年ごとに納骨された骨で骨仏が作られている。
建築家でもある現長老・高口恭行の作った鉄とコンクリートの斬新な山門(1997年(平成9年)完成、彫刻家・神戸峰男による阿形像・吽形像や、日本画家・秋野不矩による天女像がある)や、信徒会館である日想殿(1977年(昭和52年)完成)など現代建築による施設も見所の一つである。
空襲で焼け残った念仏堂は京都府南丹市に移築されている。  (wikipedia・一心寺より)]

摂津名所図会. [前,後編] / 秋里籬嶌 著述 ; 竹原春朝斎 図画」 – 「2巻41・一心寺

南粋亭芳雪/画 茶臼山(wikipedia-photo)

[一心寺の北(南?)にある。「荒陵」と呼ばれ、もともと前方後円の古墳であったとする。大坂冬の陣夏の陣で陣営にもなった。夏の陣では真田幸村がここに陣を置き、東軍と戦い戦死した茶臼山の合戦の地となった。現在は天王寺公園の中にあり、隣に大阪市立美術館が建っている。  (「本資料のURL – 詳細 :おおさかeコレクション」より)]

一心寺参道口のカメラです。

一心寺北門前のカメラです。

一心寺南門前のカメラです。

一心寺仁王門前のカメラです。

一心寺本堂前のカメラです。

一心寺開山堂前のカメラです。