マーカーは吉野川・千石橋です。
吉野川・千石橋
[奈良県吉野郡の「天川村」へ行くには、近鉄吉野線「下市口駅」から南へ行って、吉野川の清流に架かる「千石橋」を渡ります。昔は「桧の渡し」と呼ばれる渡船場が、上流約100mの所にあり、吉野郡最大の商都、下市から吉野の奥地へ、また、奥地から下市へ一日千石の荷を運んでいたので、江戸中期頃に小さな木橋が架けられ「千石橋」と名付られました。でも、度重なる洪水で流され、その度毎に関係隣村に費用を割付け徴集、架設し、橋の長久と往来安全を祈って、直ぐ東側の西来寺(せいらいじ)境内に一石一字法華塔が建てられました。また、明治25年初めて堅牢な鉄橋が竣工し、今の橋は、昭和38年7月竣工です。 (「割箸と三宝の「下市町」(その1)」より)]
[千石橋 – 天明8年(1788)頃は「大橋」と呼ばれた。文久年間(1861~1864)頃に「千石橋」の名称が使われだした。(下市町史) (「吉野下市 千石橋 (2代目) – 奈良県立図書情報館」より)]
秋野川
[吉野川南岸を古くは「安騎野」と称した。これは応神天皇が熊野路より行幸し地名を問われた古老が「吾ケ妻ノ里」と答えたのが「吾妻ノ里」「蜻蛉(あきつ)」「安騎野」と転じたもので、「秋野」は安騎野が更に転じたものである。
江戸時代、下流部の下市には薬草を栽培する薬園が多く置かれ、やがて薬種商が集まり栄えた。今でも「問屋橋」など橋名に名残を残す。 (wikipedia・秋野川より)]
[京都や奈良を中心とする天皇や貴族の金峯山信仰が盛んになるとともに、下市は仏教文化の影響を受け、歴史的にも特異な存在となっていったのです。
平安時代になると、貴族や有力社寺が荘園経営のため大挙して下市に進出し、活況を呈することになりました。「下市」というのは「上市」に対する呼称で、秋野川が当時、吉野地方の入り口であったため、中世以降、交易が盛んになり、毎月2・7日は、「市」が開かれた事によります。
「山家なれども下市は都、大坂商人の津でござる」とうたわれ、江戸時代初期には日本最初の商業手形「下市札」が発行されました。以後商工業都市として、あるいは願行寺の寺内町として目覚しい発展を遂げ、吉野地方の中心的な存在として政治・経済・文化の上でも重要な役割を果たしてきました。
慶長8年(1603年)に江戸幕府が開かれると、この地方は、他の地方に見られるような一国大名を置くことなく、小単位の大名領と天領を合綴し、天領も直領と知行所に分け、それぞれに分治させるという方策がとられました。こうして吉野郡はこの直轄となって発展したのです。
慶応3年(1867年)大政奉還後維新政府が出現すると、翌4年には奈良県が誕生、その後明治3年には五条県が設置されました。明治21年に町村制が公布され、翌22年に下市村以下11ケ村が統合され、下市村が誕生しました。そして明治23年4月1日、下市村は下市町として発足し、昭和31年には秋野村、丹生村と合併して現在に至っています。 (「歴史 | 下市町」より)]
「大和名所図会. 巻之1-6 / 秋里舜福 [著] ; 竹原信繁 画」・「下市秋野川東野」(7-21)
[図会の歌の中に東野と記述されています。「大和名所図会」の本文の「安騎野」「東野」(7-22)に「善城下市二村の間にあり」と記述されています。図会の川の描き方が細すぎますが、描かれる橋は「大橋」と思われます。貴族や有力社寺が荘園経営のため大挙して下市に進出していたようで、公家の一行が描かれています。また、「大和名所図会」の本文に「下市名産缾鮓(つるべすし)」の項があり、下市には創業が文治年間(1185年〜1189年)で、すでに800年以上が経つ老舗中の老舗「つるべすし 弥助」があります。]
「天然鮎の懐石料理を、800年前に創業した現存最古の鮨屋で …」
カメラ位置は千石橋南詰めです。
カメラ南東方向が「つるべすし 弥助」です。(Google Map)