マーカーは中津藩奥平家京屋敷跡です。
[奥平 昌服(おくだいら まさもと)は、豊前国中津藩8代藩主。男系では薩摩藩島津家の血筋であったが、奥平家は譜代の名門であったことから、昌服は佐幕派として長州征討にも参加している。しかし慶応4年(1868年)1月の鳥羽・伏見の戦いで旧幕府軍が新政府軍に敗れると、新政府軍に味方することを表明して会津藩まで出兵した。4ヵ月後の5月6日に病気を理由として、家督を養子の昌邁に譲って隠居した。
昌服は鎖国攘夷論者とされるが、『大日本古文書・幕末外国関係文書』の中に収録されている「中津城主奥平大膳大夫昌服」の幕府宛上書には「交易之儀御許容之方後年太平御安寧之事ニ奉存候」、開国を許せ、とある。ただし、これは『嘉永明治年間録』を写したもので原文ではないが、東京大学史料編纂所には水戸徳川家所蔵の嘉永6年(1853年)の上書の大部分の写しがあり、その中の奥平昌服の上書の全文も近年紹介された(『大分県地方史』194号)。また、一部は『岩波講座日本通史』15巻299頁に掲載されている。そこには、そもそも外国との通信交易は当然のことで、アメリカ、ロシア、イギリス、その他どの国とも交易すべきで、鎖国は今や時代遅れだから廃止すべしと明瞭に述べられている。 (wikipedia・奥平昌服より)]
「国立国会図書館デジタルコレクション – 文久改正新増細見京絵図大全(文久3 [1863])」(絵図中央上方向・堀川/出水、右下に奥平大膳(奥平昌服)と記述されています。)
「西尾市岩瀬文庫/古典籍書誌データベース – 京町御絵図細見大成(1868)」(絵図中央上方向・堀川/出水、右下に中津ヤシキが描かれています。)
カメラ位置は上京区四町目189−1地先で、カメラ南方向両サイドが中津藩奥平家京屋敷跡になります。