五條里の旅宿(旅館 やなせ屋)

マーカーは旅館 やなせ屋です。

五條新町
[五條新町(ごじょうしんまち)は、奈良県五條市の五條新町通り(伊勢街道)界隈に位置する重要伝統的建造物群保存地区の名称である。 慶長13年(1608年)に筒井氏の家臣であった松倉重政が二見城城主に封じられて五條・須恵を領し、五條と二見の間に形成された新町村を町場として発展させた城下町を起源とする地区で、新町村は東・中・西町からなり、元和9年(1623年)には約95軒の家があり、現状の約110軒と大差がない町並みが形成されていた。現在、当地区内の建造物330棟のうち143棟が伝統的建築物として特定されている。
南大和の中心都市・五條市の吉野川(紀の川)北岸に位置する五條新町は「五條」と「新町」から成る。五條は中世末に町場が形成された地区であり、その西の新町は近世初頭に城下町として新たに形成された地区である。伊勢大和紀伊を結ぶ街道が交差し、吉野川(紀の川)が流れる五條は、古くから交通の要衝であり、近世には伊勢街道の宿駅として栄えた。慶長13年(1608年)、松倉重政がこの地に一万石で入部し、二見城を築いた。五條市二見5丁目の妙住寺がその城跡である。城と五條の町場とは離れており、この間を結ぶ道沿いに発達したのが新町である。松倉重政は元和2年(1616年)に肥前日之江城へ転封となり、二見城は廃された。以後の五條新町は天領となり、商家町として発展する。寛政7年(1795年)には五條代官所が置かれた。  (wikipedia・五條新町より)]

大和名所図会. 巻之1-6 / 秋里舜福 [著] ; 竹原信繁 画」・「五條里の旅宿」(5-26)

[五條の宿場風景が描かれています。町人、商人、行商人、旅人、馬などで描かれ、活気が伝わってきます。『大和名所図会』の著者・秋里籬島と絵師・竹原春朝斎もきっとこの宿場町を訪れ、行き交う活気・喧噪を肌に感じたことでしょう。
そもそも五條は古くから交通の要衝で、東へ向かう伊勢街道、西へ向かう紀伊街道が延びていました。北へ行けば奈良盆地へ、あるいは金剛山地を越えて河内へも通じており、南に目を転じれば空海が開いた高野山につながります。さらに吉野川(紀ノ川)が流れ、吉野の山々から木材を運ぶ筏が盛んに川を下るなど、水陸両面で交通の要地です。
挿図にある正面の館には「旅宿」の札が立っています。食材を運んできた人、草鞋を脱ごうとしている人、天秤棒に桶をぶら下げ行商する人、旅宿の女将さんに駕籠に入った魚(尾しか見えていませんが、タイのような尾びれです)を勧める人、もちろん宿場町ですから旅人らしき姿も見られます。黒い着物を着て、旅宿の座敷に右足を乗せている男性は宿の主人でしょうか。
左上の文には「四方の旅客」「遠近の産物」「朝市夕市」「商家多く」といった文字が見え、「郷の賑ひいはん方なし」(五條の郷の賑わいは何とも言いようがないほどだ)と記されています。絵を見ていると、会話や足音などが奏でるざわめきが聞こえてきそうです。
この時代の風情を今も感じられるのが、五條新町通りです。江戸時代初期に五條藩城下町として開かれました。後に大和南部の天領を管轄する五條代官所が置かれ、町は繁栄し、賑わいました。しかし、幕末、五條代官所は尊王攘夷派の天誅組に襲撃されました。
新町通りには、現在も江戸時代以降の各年代の代表的な建築様式が残されており、2010年に重要伝統的建造物群保存地区に指定されました。慶長12年(1607年)建築の栗山家住宅(非公開)は建築年代が判明している民家としては日本最古です。明治大正時代の民家を改築した「まちなみ伝承館」では町の歴史文化にかかわる資料が展示されています(五條市本町2丁目7-1/9:00~17:00/水曜休館/入館無料)。
周辺には、吉野川河川敷、櫻井寺(天誅組本陣)、幻の五新鉄道跡、機関車金剛ハロー号、五條代官所長屋門跡といった観光スポットが点在しています。  (「『大和名所図会』今昔めぐり 26 五條里の旅宿」より)]

カメラ南方向が旅館 やなせ屋です。