亥の子餅

マーカーは大阪府豊能町役場です。

摂津国能勢における亥の子餅
[1870年(明治3年)まで、摂津国能勢(のせ)(現在の大阪府豊能町)にある木代村(きしろむら)・切畑村(きりはたむら)・大円村(おおまるむら)から、毎年、旧暦10月の亥の日に、宮中に亥の子餅を献上していた。そのことから、能勢には亥の子餅に関して以下のような伝承が伝わっている。
伝承
仲哀天皇9年、12月に神功皇后は、自ら将帥となり、三韓に出兵した。筑紫に還啓された後、皇太子(応神天皇)が誕生した。
仲哀天皇10年、2月に穴門・豊浦宮を出発し、群郷百僚を率いて海路をとり、大和に凱旋する途中に、皇太子の異母兄である香阪(かごさか)・忍熊(おしくま)の二王子が、やがて皇太子が即位することを嫉(ねた)んだ。二王子が相謀り、皇太子を迎え討って殺害しようと大軍を率いた。上陸するのを待つ間、戦の勝敗を卜(ぼく)して(占って)、能勢(大阪府)の山に入り、「祈狩」(うけいがり)を催した。
「戦に勝つならば、良獣を獲られるであろう」と言っていたが、まもなく、大猪が現われ、香阪王に飛び掛った。香阪王は驚いて、近くの大樹によじ登ったが、猪は大樹の根を掘り起こし、遂に香阪王は死亡した。忍熊王はこの事を聞き、怪しみ恐れて、住吉に軍勢を退いた。
神功皇后はこの事を聞かれて、武内宿禰に忍熊王を討伐を命じた。忍熊王は戦に破れ、山城国宇治に退き、さらに近江国瀬田に逃れたが、死亡した。これにより、皇后・皇太子は、無事に大和の都に凱旋した。その後、神功皇后が崩御し、皇太子(応神天皇)が即位した。応神天皇は、皇太子の時に、猪に危難を救われた事を思い出して、吉例として、を発して、能勢・木代村、切畑村、大円村より、毎年10月の亥の日に供御を行うように命じ、亥の子餅の献上の起源であると言い伝えられている。
調理過程
能勢から、宮中へ献上される亥の子餅(能勢餅(のせもち)とも言う)(近世ごろ)の調理方法が「禁裏献上 能勢のおいの子」に記載されている。
10月に入ると、猪子役人の当番の者が御所御賄所に出頭し、御用の数を伺う、「合数伺い」を行う。この時に、御賄所より、その数(合数)を記した御書付を下される「御書下げ」があり、調理準備に入る。
1合とは、1箱のことである。献上の数は一定していないが、約100合から150合である。
亥の日7日前になると、献上する亥の子餅を作る家には、亥の子餅を調理する場所・道具・使用する井戸を木代村では、真言宗善福寺(どんどろ大師善福寺)、切畑村は法華宗・法性寺の僧侶を請じて、それぞれ清めの加持を行った後に調理が始まる。
1.糯米(もちごめ)を洗い清めて、水に浸す。
2.蒸篭(せいろう)に入れて、糯米を蒸す。
3.別に小豆(あずき)を蒸した糯米に合せる。
4.合せた糯米を挺樋(ねりおけ)と呼ばれる四斗樽の樋に投じて2本の棒を用いて「エイエイ」と掛声をしながら、こねつける。やがて、淡紅色の猪の色に似た餅が出来る。
5.長さ6寸・幅4寸・深さ1寸5分の箱に餅を詰め、別に煮た小豆の釜に沈殿した餡を流しかける。
6.餡を流しかけた餅の上に、薄く切った方形に切った栗の実を6個並べ、その上に更に、熊笹の葉2枚で覆う。
餅は猪肉、栗は猪の骨、熊笹は牙を模しているという。  (wikipedia・亥の子餅より)]

摂津名所図会. [前,後編] / 秋里籬嶌 著述 ; 竹原春朝斎 図画」-「12巻43・御玄猪の餅