京橋口定番下屋敷跡

マーカーは京橋口定番下屋敷跡です。

[大坂城城代・定番は妻子を伴なって赴任することが許されたが、本人は通常城内の城代・定番屋敷に起居し、妻子は城外に与えられた下屋敷に置かれた。  (「松尾美恵子「大坂加番の一年」」より)]

大阪の地図(1686年)(拡大図)

絵地図を右端迄スクロールすると、大和川口に京橋が描かれ、その下に大阪城が描かれています。大阪城左下に御城代阿部伊勢守下屋敷、右・猫こま川(猫間川)左に玉造口御定番森川兵部少輔、右上、大和川下に京橋口御定番植村土佐上と記述されています。
※wikipediaでは大阪の地図は1686年作成となっていますが、絵地図を見ると本町橋東詰に西町奉行所が描かれ、大阪城代・阿部正福(伊勢守・1745年 – 1747年)、京橋口定番・植村恒朝(土佐守・1742年 – 1747年)、玉造口定番・森川俊令(兵部少輔・1745年 – 1749年)の名が見えますので、1745年 – 1747年頃の作成になると思います。マイドームおおさか 敷地の変遷(詳細)では、宝暦8年(1758年)としています。

[絵地図に記述される植村土佐守は、上総勝浦藩の第3代藩主植村恒朝のことで、植村恒朝は元禄14年(1701年)、第2代藩主植村正朝の次男として生まれる。長兄が早世したために世子となり、享保13年(1728年)12月に従五位下、長門守に叙任する。享保14年(1729年)の父の死去により家督を継ぎ、土佐守に転任する。
寛保2年(1742年)2月から延享4年(1747年)4月まで大坂定番を務めた。しかし寛延4年(1751年)8月24日、分家の植村千吉(恒朝の叔父・植村忠元の孫)が義弟の朝比奈義豊(万之助)に殺害され、殺害後義豊も自害するという事件が起こった。この事件を恒朝は家老の意見を容れ、幕府には病死と偽って報告したが、10月になって朝比奈家より出された届けと異なったために虚偽が発覚、本来なら死刑か流罪にされるところを、大御所徳川吉宗の死去にともなう恩赦により、10月12日に改易のうえで本家の大和高取藩植村家道預かりの身となった。宝暦3年(1753年)8月、恩赦により罪を許された。  (wikipedia・植村恒朝より)]

カメラ位置は新鴫野橋で、カメラ北北東方向が京橋口定番下屋敷跡になります。