マーカーは一条戻橋です。
一条戻橋
[一条戻橋(いちじょうもどりばし)は、京都市上京区の、堀川_(京都府)に架けられている一条通の橋である。単に戻橋ともいう。794年の平安京造営のときに架橋され、橋そのものは何度も作り直されているが、現在でも同じ場所にある。一条通は平安京の一番北の通りであり、洛中と洛外を分ける橋でもあった。現在の橋は1995年(平成7年)に架け直されたものである。一条戻橋の近くにある晴明神社には、それ以前の一条戻橋を実際の部材を使って再現したミニチュアがある。
「戻橋」という名前の由来については『撰集抄』巻七で、延喜18年(918年)12月に漢学者三善清行の葬列がこの橋を通った際、父の死を聞いて急ぎ帰ってきた熊野で修行中の子浄蔵が棺にすがって祈ると、清行が雷鳴とともに一時生き返り、父子が抱き合ったという。
『平家物語』剣巻には次のような話がある。摂津源氏の源頼光の頼光四天王筆頭の渡辺綱が夜中に戻橋のたもとを通りかかると、美しい女性がおり、夜も更けて恐ろしいので家まで送ってほしいと頼まれた。綱はこんな夜中に女が一人でいるとは怪しいと思いながらも、それを引き受け馬に乗せた。すると女はたちまち鬼に姿を変え、綱の髪をつかんで愛宕山_(京都市)の方向へ飛んで行った。綱は鬼の腕を太刀で切り落として逃げることができた。腕は摂津国渡辺(大阪市中央区)の渡辺綱の屋敷に置かれていたが、綱の義母に化けた鬼が取り戻したとされる。
戻橋は橋占の名所でもあった。『源平盛衰記』巻十によれば、高倉天皇の中宮建礼門院の出産のときに、その母の二位殿が一条戻橋で橋占を行った。このとき、12人の童子が手を打ち鳴らしながら橋を渡り、生まれた皇子(後の安徳天皇)の将来を予言する歌を歌ったという。その童子は、陰陽師・安倍晴明が一条戻橋の下に隠していた十二神将の化身であろうと書かれている。安倍晴明は十二神将を式神として使役し家の中に置いていたが、彼の妻がその顔を怖がったので、晴明は十二神将を戻橋の下に置き、必要なときに召喚していたという。
戦国時代には細川晴元により三好長慶の家臣和田新五郎がここで鋸挽きにされ、安土桃山時代には豊臣秀吉により島津歳久と千利休が梟首された。また秀吉のキリスト教禁教令のもと、1597年には、日本二十六聖人と呼ばれるキリスト教殉教者は、ここで見せしめに耳たぶを切り落とされ、殉教地長崎へと向かわされた。
嫁入り前の女性や縁談に関わる人々は嫁が実家に戻って来てはいけないという意味から、この橋に近づかないという慣習がある。逆に太平洋戦争中、応召兵とその家族は無事に戻ってくるよう願ってこの橋に渡りに来ることがあった。
堀川の水流が戻る前の一条戻橋・wikipedia-photo、遊歩道から北に見る戻り橋・wikipedia-photo、上流から南側に見た戻り橋・wikipedia-photo、一条通から見た戻り橋・wikipedia-photo、堀川通から見た戻り橋・wikipedia-photo、由来を伝える京都市設置の駒札・wikipedia-photo (wikipedia-一条戻橋より)]
[罪人引き廻し経路を細かく描写した民俗誌として『師走の京都』が挙げられる。それによれば, 経路は次のようになる。
牢屋→三条通→油小路通→一条戻橋→一 条室町→室町三条→三条新町→新町松 原 (十念の辻) で東西に分かれる。松原通を東へ→寺町通→三条通を渡って粟田口刑場へ。
あるいは松原通を西へ→油小路通→三 条通→千本通→二条通(今の太子道)→地獄橋を経て紙屋川刑場(西土手刑場)へ。
経路上のいくつかの場所で儀礼が行われる。例えば, 一条戻橋においては, 馬上の罪人に対して花と餅が供えられ,「来世は真人間になって戻ってこいといわれた」。十念の辻においては,「寺町浄国寺の住職が囚人達にそれぞれ十念を授けた」。これは, 一条戻橋と十念の辻が,「再生」を願う場所と「引導」を渡す場所として,対になって強調されているとみることができる。
(「場所と物語-京都の罪人引き廻し伝承を事例として- 土居 浩」より)]
「都名所図会」・巻之一 平安城再刻 一条戻橋 (戻橋) 、巻之一 平安城再刻 戻橋解説
一條戻橋(拡大図)
[家集 いづくにも帰るさまのみ渡ればやもどり橋とは人のいふらん 和泉式部
婚礼の輿入、この橋を通るを嫌ふは、橋の名によりてなり。又旅立、人にものを貸時通るは、これに反すとやいふべき]
カメラ位置は一条戻橋東詰めです。