一色義直屋敷跡

マーカーは一色義直屋敷跡です。

一色義直
[永享12年(1440年)に父一色義貫大和国の陣中で6代将軍足利義教の命を受けた武田信栄により自害に追い込まれると、一色氏の惣領には義教の寵臣で従弟の一色教親が就く。義貫には7人の子がいて、3人は父と共に討たれ、2人は教親に預けられて流罪となり、残りの2人は室町幕府政所執事伊勢貞国に預けられたといわれているが、義直が4人のうちいずれかは不明。
しかし、義貫の遺臣はその後も一色家嫡流の復興を訴え、各地で蜂起を繰り返す。嘉吉元年(1441年)の一色氏旧守護国三河国若狭国での国人蜂起、翌年12月の延永氏の京都北野天満宮立て篭もり事件、文安元年(1444年)の氏家氏の叛乱未遂事件などがそれである。
宝徳3年(1451年)、33歳で没した教親には家督を継げる嗣子が無く、義直が家督を継ぐ。ここに一色氏当主の座を嫡流に戻すという義貫遺臣の願いは達成された。同時に丹後国伊勢半国守護となる。その後、三河渥美郡・若狭小浜も知行地として手に入れる。幕政においては御相伴衆となり8代将軍足利義政の信頼を獲得、長禄元年(1457年)と寛正3年(1462年)に発生した土一揆を諸大名と共に鎮圧、寛正年間は毎年2月17日に義直の京屋形に足利義政が訪れるのが慣例となっていた(『蔭凉軒日録』)。  (wikipedia・一色義直より)]

上京の戦い
[1月の御霊合戦畠山政長は政敵の畠山義就に敗れ細川勝元の屋敷に匿われたが、室町幕府8代将軍足利義政が事前に互いの援助を禁じていたため戦乱は両者の争いに止まり、合戦後は両者の支持者であった勝元と山名宗全及びそれぞれの派閥に属する大名達が義政の下へ伺い、平和裏に幕府と朝廷の行事が執り行われていった。2月24日には義政の弟の足利義視が勝元と宗全の調停を済ませ戦乱は収まったかに見えた。
しかし不穏な情勢は続き、3月3日の節句に細川派は欠席、細川派と山名派の被官が争い山名派の被官が殺害される事件が発生、山名派の兵糧を細川軍が奪ったり、畠山義就の家臣が細川派の被官を襲ったりして京都の治安は悪化した。5月に入ると勝元は巻き返しを図り、諸大名を地方に派遣させ山名派の基盤を崩す戦略を取り、斯波義敏斯波義廉の領国越前へ、赤松政則の家臣宇野政秀は宗全の領国播磨へ、土岐政康一色義直の領国伊勢へ攻め入った。合わせて勝元は諸大名の上洛を要請、宗全も軍勢を動員して京都に集結させた。両軍の総勢は東軍16万、西軍11万とされている。
両軍の本陣及び勢力範囲も定められ、細川派は勝元邸と花の御所を中心とした京都北部から東を、山名派は京都西部を流れる堀川西岸に建てられた宗全の屋敷と京都中央にある斯波義廉の屋敷を拠点に西部と中央を固めた。こうして両陣営の縄張りは大体決まり、勝元と宗全の屋敷の位置からそれぞれ東軍・西軍の呼称で表された。
5月26日、戦端が開かれたのは上京であり、東軍の武田信賢は夜明け前に堀川支流の小川西岸の実相院を、政長の側近成身院光宣は東岸の正実坊を占拠した(政長は勝元の軍勢動員に伴い復帰)。これは義政が居住している花の御所の左隣に位置する一色義直の屋敷を占拠する狙いからであり、足掛かりを築いた武田軍は夜明け頃に一色邸を奇襲、義直は反撃出来ず山名宗全の屋敷へ逃亡した。これで東軍は義政を確保し西軍討伐の大義名分を得た。  (wikipedia・上京の戦いより)]

中古京師内外地圖 : 皇列緒餘撰部(内容年代(和暦) 平安-安土桃山時代ヵ・成立年代(和暦)寛延3・1750年」(絵図上中央付近・室町殿の上に柳原亭 一色義直邸と描かれています。)

京師地圖 : 全 : 中昔 – 所蔵地図データベース」(左絵図・絵図中央、「将軍室町殿 花御所舊地」の正門は烏丸通に面して描かれています。花の御所の左隣は裏築地ノ館で、ここが一色義直屋敷跡と思われます。)

[花の御所の範囲は,南は北小路(きたこうじ),北は毘沙門堂大路(びしゃもんどうおおじ,現上立売通),東は烏丸小路(からすまこうじ,現烏丸通),西は室町小路(むろまちこうじ,現室町通)の東西一町・南北二町と考えられています。現在の今出川町(いまでがわちょう)・築山南半町(つきやまみなみはんちょう)・築山北半町・岡松町・御所八幡町(ごしょはちまんちょう)・裏築地町(うらつきじちょう)・上立売東町(かみだちうりひがしちょう)にあたります。  (「都市史12 花の御所 – 京都市」より)]

カメラ位置は烏丸通/上立売通で、カメラ北西方向が一色義直屋敷跡と思われます。