マーカーは丸亀藩京極家京屋敷跡です。
[文久3(1862)年4月4日、第14代将軍徳川家茂上洛が行われる。これに先立ち幕府は京の治安を維持するため文久2年閏8月朔日京都守護職を新設、会津藩主・松平容保を充てた。さらに幕府は将軍上洛に合わせ、24藩に対して市中の警備を命じている。
この文久3年の将軍上洛以降、京都に入ってくる諸藩の武士が急激に増加する。既存の寺院を本陣として定めたり、市内に新たな京屋敷を建設したりしてきたが、それでも賄う事ができなくなると、洛東や洛西に更に広大な屋敷を求めるようになる。
それでも本陣や京屋敷等に収容できなかった藩兵は、三々五々と分かれ京の町々の借家を仮の宿としたようだ。元々京都は城下町として発展してきたわけでないので武士が住む地域が設定されていない。そのため無理に町屋へ押し込めることとなった。文久3年後半から翌元寺元年前半にかけて入京した譜代大名の家臣のうち、本陣や藩屋敷以外に下宿した者については、未見であるが「京都諸家来名前」という形で残されているそうだ。「京都の歴史 第七巻 維新の動乱」には筑後久留米藩(有馬家)、讃岐丸亀藩(京極家)や芸州広島藩(浅野家)の事例が記されている。丸太町烏丸西入ルに藩邸を持つ丸亀藩の場合、391名を21ヶ所に分宿させている。例えば丸太町烏丸西入ル伊勢屋六兵衛借家には15名、丸太町両替町西入ルの藤屋源助の家には3名、烏丸通丸太町丹波屋長兵衛の借家鍵屋富吉宅には57名、油小路丸太町上ルの宝請寺に71名と場所もその人数もかなりばらついている。既に油小路丸太町の地に宝請寺は存在しないため、宝請寺71名の住環境がどんなものであったかは分らない。碓井小三郎の「京都坊目誌」(「新修 京都叢書 第15巻 京都坊目誌 上京 坤」(光彩社 1968年刊))で調べてみると米屋町東側293番地にはかつて真宗本派本願寺に属する宝受寺があったことが分る。碓井が著わした大正初年頃に宝受寺の寺地は147坪とあったとされている。もしこの宝受寺が幕末も同じ規模であり、ここに丸亀藩兵71名が寝泊りしていたとすればかなり窮屈であっただろう。さらに借家鍵屋富吉宅57名はただ人数あわせのために詰め込んだとしか思えない。外様大名で5万1千石の丸亀藩は、幕末期には尊王派として行動し御所警備のためにたびたび出兵を行ってきた。他藩と比べ小藩であっても多くの藩兵を京に置かなければならなかったのかもしれない。 (「薩摩藩邸跡(二本松): 徘徊の記憶」より)]
「国立国会図書館デジタルコレクション – 文久改正新増細見京絵図大全(文久3 [1863])」(絵図四つ切右上・御所左下、丸太町/烏丸左上に丸亀と描かれています。)
「西尾市岩瀬文庫/古典籍書誌データベース – 京町御絵図細見大成(1868)」(絵図四つ切右上・御所左下、丸太町/烏丸左上に丸亀と描かれています。)
カメラ位置は丸太町通/両替町通 T 字交差点で、カメラ北方向が丸亀藩京極家京屋敷跡になると思われます。