マーカーは二口屋跡です。
二口屋
[中昔亰師地圖では、「花の御所」が、南北は上立賣通(毘沙門堂大路)から今出川通(北小路、堀出シと記す)、東西は烏丸通から室町通の間を占めている。その西側に御靈ノ辻から南半丁ばかりの室町通沿いに「畠山屋形」が、さらにその西側に接して「伊勢守」が新町通(町口)沿いに記載されている。北側は御靈ノ辻まで、南側では、今出川通迄は達せず、畠山屋形の南(現在でいえば築山南半町の室町今出川西北角)に接して「二口屋」とある。これは禁中の御花車を預かる所で、後に菓子商になっている。京羽二重に「二口能登」と出ており、江戸時代前期の1701(元禄14)年の段階ですでに禁裏御用を承っていた菓子屋で、天保年間(1830~1844)に経営を破綻させて、営業権を虎屋に譲渡したという。 (「洛中洛外 虫の眼 探訪 <洛中洛外虫の眼探訪 づしづくし」より)]
[『好色一代男』は主人公世之介の7歳から60歳に至るまでの好色遍歴を、短編をつらねて一代記の形にまとめた作品です。今回は巻8より、56歳の時のエピソードをご紹介しましょう。
京都の石清水八幡宮へ厄払いを思い立ち、混雑する日中をさけて、寒月の夜、牛車で出発した世之介を、島原の太夫たちが迎えにきます。暖かな布団や豪華な調度を揃え、名酒・ご馳走を並べた心づくしの接待に感激した世之助が、お礼に用意させたのが金銀の箔を押した「日本一の饅頭」でした。一つ5匁(約19g)のこの饅頭を900個、その夜のうちに作りあげたのが二口屋能登です。二口屋は京都室町今出川角に店を構え、長く御所の御用を勤めた実在の上菓子屋でした。京都の買物案内や評判記などで、菓子屋の筆頭に名前が挙げられているところから、名店であったことがうかがえます。二口屋の饅頭は『諸艶大鑑(しょえんおおかがみ・好色二代男)』にも登場しますから、ひょっとすると西鶴の好物だったのかもしれませんね。
なお、二口屋は江戸時代後期になって経営が悪化し、共に長らく御所御用を勤めていた虎屋が経営権を継承しました。その関係で、虎屋には二口屋の絵図帳などの古文書が伝えられています。 (「井原西鶴と日本一の饅頭 | 菓子資料室 虎屋文庫 | 株式会社 虎屋 – とらや」より)]
カメラ北西方向に二口屋があったようです。また、カメラ北方向角に足利将軍室町第跡碑があります。